arcturus2006-09-02

蝉の声を聞く度に目に浮かぶ九十九里浜

きれいです。
夏の終わりに(Lirong's Photorium***)
 
 
 
昨日のニュース。
薬害エイズ事件:旧厚生省、事件後に天下り39人 処分の2人も(毎日新聞 2006.9.1)

すこしまえの。どうなったかな…

2原告国が和解拒否…薬害エイズ(読売新聞 2006.4.7)
 
 
 
昨年12月のエイズ学会シンポジウム。

薬害のない未来を:安部元副学長逮捕10年/3 和解時の誓い(毎日新聞 2006.9.1)
エイズ学会の歴史的なシンポ(粂 和彦のメモログ)
HIV問題から何を学ぶべきか(郡司篤晃)

あらためて10年経ったんだなって思いました…
 
 
ついでにくりっぷ。

薬害エイズ−厚生省の犯罪(大阪HIV訴訟原告団長・ 家西悟氏講演会資料Ⅰ 1996.8.2)
 
厚生省は非加熱製剤の輸入継続を認めさせる明確な意図をもってエイズ研究班を作った。そして既定の方針を、「専門家」が決めたという形をとらせて、自らの「隠れ蓑」と責任回避の手段としたのである。その意味では、エイズ研究班の設置そのものが重大な犯罪であった。

薬害エイズ被害者の抱えるジレンマ(LAPニュースレター第29号 2000.3)
 
国に対する不信と期待は、民事裁判中でも指摘されていた。被告国は加害者として糾弾すべき相手であると同時に、厚生行政の担い手として救済を求めるべき相手でもあったのだ。民事裁判が係争中、厚生省への要請行動を行なった際、最後に被害者らが厚生官僚に「どうぞよろしくお願いします」と深々と頭を下げたのを見て、愕然とした思いがある。
裁判所の和解勧告での賠償金の負担割合は、製薬企業六割で国が四割、製薬企業に第一次的責任があるとされている。しかし和解成立後の要請や交渉は、専ら厚生省ばかり。厚生省の責任を追及する勇ましい掛け声が聞こえていても、それは期待への裏返しでもあるのだ。逆に言えば、「自分たちを守ってくれると期待していた」国に裏切られたとの強い憤りもある。それは、被告となっていない医師に対しても言えることで、遠い存在に感じられる製薬企業に対する怒りよりも強いと言えるだろう。
責任割合と、被害者の怒りや期待が必ずしも一致しているわけではないのである。

花井十伍さんインタビュー(『いのちジャーナルessence』No.6 2000.11)
 
専門家が本当に専門家として優れていて、1つの専門領域を持つものが何かを判断できるというようなシンプルな社会であれば、それも1つの考え方でありますが、残念ながら今はそういうシンプルな社会ではないですね。薬害エイズは80年代の事件ですが、当時の専門医たちが新しい感染症血液製剤との関係において何らかの判断をするというのは、あまりにも身にあまった状況だったわけです。

 
 
もっとも高価な液体、血液の歴史。おもしろいです、瀉血とかくらくらしちゃいますけど。

血液の物語
なぜこのような騒動が起こったのか。資源としての血液の歴史や、血液を理解し探求しようとした人間の試みをテーマとする本書は、それを基本的な問題の1つとして取り上げる。血液は世界でもっとも重要な医薬品の1つである。血液とその製剤は毎年何百万という命を救っている。だが血液は、まだ完全には解明されていない複雑な資源であり、汚染されやすく、社会文化的な信念と結びついている。血液は古来、神話や道徳の象徴とされ、それがいまも微妙に尾を引いている。

 
 

第三者機関

 
水俣病問題に係る懇談会、提言書起草委員会。
約40ヶ所の削除・修正を求められていた草案について、委員会は譲歩を決めたようです。

水俣病懇談会 認定基準廃止見送り 委員側が譲歩の草案(熊日 2006.8.18)
 
七月までの段階では、補償・救済の仕組みを改革する方向性として、新たな医学的診断指針と症状に応じた補償・救済制度の創設を提言。現行の認定基準については、廃止して新たな診断指針の中に組み込むとしていた。
これに対し、環境省は「現行基準の廃止」という表現に強く抵抗。全面削除を求めていた。
修正した草案は、現行基準について、関西訴訟最高裁判決と同様に、原因企業チッソと補償協定を結ぶ劇症・重症患者を認定する基準としては容認。その基準に漏れるものの、補償を必要とする被害者を救う新たな基準を設定し、全体として水俣病被害者の新たな補償・救済の枠組みを構築するよう提言する方向で検討している。

立法での福祉施策を 懇談会委員ら提言盛り込みで一致(熊日 2006.8.25)
 
現在、四十代後半から五十代の胎児性患者は両親の高齢化が進み、将来的な介護が不安視されている。このため委員らは、永続的な福祉施策が不可欠と判断。胎児性患者以外も含め立法措置での対応を促すことで一致した。
認定基準については、劇症・重症患者を線引きするものとして現行基準は残すものの、補償を必要とする被害者を救う新たな基準を設置。全体として水俣病被害者の新たな補償・救済の枠組みを構築するよう求める。

 
9月に公表が予定されている提言は環境省からのものになってしまいますね。それならなんのための第三者機関なのか、最高裁判決を受けて設けられた懇談会でしたのに。

核心評論 同じ轍踏む環境省 調整名目で“干渉”(熊日 2006.8.19)
 
行政が第三者機関を自らの都合に合わせて誘導し、その結果、チッソの廃水は流され続け、被害拡大を招いた。この事実は、環境庁が九九年十二月にまとめた「水俣病に関する社会科学的研究会」報告書にも明記している。それなのに公式確認五十年を機につくられた第三者機関で、同じ轍を踏んでいる。

このような批判を受けることくらい最初からわかってたでしょう、そんなに現行の基準は守らなければならないですか。被害者の立場に立った提言に依ることなしに「切り捨てのための施策でしかない」との非難を免れることはできないのではありませんか。
患者のくるしみに背を向け続けてきて、そもそも加害者に公平な被害者救済ができるのか、という声さえあるなかでは不信のまなざしばかり向けられるのは、これまでを思えばしかたのないことでしょう。だからこそ第三者機関を設けたのではないですか??
できるかぎり広く受け入れられたいなら(そうでなければならないはずです)第三者機関の提言を、その中立性(たとえ限界があるとしても)を、必要としているのは国や県のほうでしょう。解決策を出したいなら、ですよ。わざわざぶち壊すのは、どーでもいいですよってことですか??
このようなやり方でも信頼が得られると考えているのであれば傲慢というしかないと思いますし、施策に対しての信頼など必要ないというなら行政にあるまじき姿勢ではないでしょうか。
この記事は

この懇談会の経緯がただ一つ意味があるとすれば、過去の失敗を生み出すに至った行政の論理、体質をいみじくもあぶり出している点だ。

というけれども、ただ失望が重なるだけだもの。
「なにも変わっていない、学んでいない」の批判に答えることができますか??
これもそう…

審査棄却理由の中に「人格」申請者に県謝罪(熊日 2006.8.15)
 
報告書は水俣病の症状の視野狭窄の確定法に関する質問に、「視野は、検査方法や被験者の環境、人格等機能的要因によって影響を受けやすい」などと回答。緒方さんが八月一日に「私の人権を傷つける表現」として、県に具体的な意味の説明を求める文書を送っていた。
県の謝罪文書は谷崎淳一・水俣病対策課長名。「環境、人格等機能的要因」について、「(申請者が)検診を受けるときの外的状況や疲労の具合、また不安感や緊張といった要因およびその影響の受けやすさを表現した」と説明。「表現が適切なものであるのか否かを何ら考察することなしに使用した。緒方さんと周囲の方々の心を痛めてしまい申し訳ない。今後使用は一切しない」としている。
緒方さんは「水俣病被害者に対する差別的な感情が表れているのではないか」と反発。近く県側に面会を求め、詳しい経緯と対応策をただす考え。代理人の高倉史朗・水俣病患者連合事務局長(55)は「極めて不用意、無礼な表現だ。症状を偽っていると疑っているようなもので、認定業務を担う県が被害者にどう向き合っているのか、如実に示している」と指摘している。

「人格」表記、県が直接謝罪「教訓生かすのが大事」(熊日 2006.8.20)
 
緒方さんは、県が測定した二歳時の毛髪水銀値が二二六ppm(正常値一〜五ppm)と高い数値だった。しかし、これまで四回の水俣病認定申請はすべて棄却され、いずれも行政不服審査を申し立てている。その理由を緒方さんは「水俣病で苦しんできた人生そのものを否定されたと感じたから」と語る。
緒方さんの行政不服審査の過程では、県の人権感覚が疑われる事例が相次ぎ表面化した。申請者の家族の職業を、県が無職の意味で「ブラブラ」と表記。認定審査の際に、県が本人の同意なく小中学校時代の成績証明書を添付していたことも明らかになった。県はその都度、緒方さんらに謝罪してきた。
それにもかかわらず、今回の「人格」表記。「この間、水俣病に対する行政の姿勢が変わってくれることを望んできたが、被害者を傷つけるばかりだった。これが(行政に与える)最後のチャンスだ」。緒方さんは、県が自ら再発防止策を検討するよう促している。

ひとを切る理由ならいっぱいあります。
「地域が混乱する」とか「政治決着の重み」とか「支払能力がない」とか。
とくに、苦痛の訴えに対して、そんなはずはないとするときに、感受性に差がある、というのは便利な言葉ですね。いまになっても、差別である悪意がある、と言えば、それもまた主観的で、感受性の問題とされかねないのでしょうけれど、でもこの便利な言葉を使ってもいいだけのことを、水俣病患者に、だれもしてきてはいません。
昨年10月3日の第一陣から8月12日の追加提訴まで、司法での救済を求めるひとは1124人になりました。なのに現行の基準は絶対に正しくて、見直すべきは、あるいは疑うべきは患者の訴えだというのには無理があるとしか見えません。これだけのひとの認定申請についても、棄却理由を「環境、人格等機能的要因」とするなら、「現行基準の廃止という表現に強く抵抗」してみたところでそこに正当性はないと私は思います。棄却しようにも認定審査会は停止したままですけれども。

不知火患者会 第6陣100人追加提訴 8億5000万円賠償求め(熊日 2006.8.12)
 
同地裁前で開かれた提訴前集会で、原告代表の大木シヤ子さん(63)=芦北町=が「正当な患者として救済してほしい」と決意表明。提訴後、同会は「第二の政治決着は、補償金額を安く抑えようとするものにすぎない。司法救済制度による解決を求めて闘っていく」などとする声明を発表した。

不知火患者会など懇談会委員に要望書送付(熊日 2006.8.12)
 
要望書は「環境省が自らに都合の悪い提言は出させないということならば、事態は混迷する」とした上で、「中途半端な解決策ではこれまでの場当たり的な解決の延長に過ぎず、思い切った発想の転換が必要」と指摘している。
園田昭人弁護団長は「第三者機関に判断を求めておきながら、自分に都合のよい結論に従わせようとする行政の体質こそ、水俣病問題の失敗の本質。環境省が懇談会の提言に手を加えるのは許されない」としている。

水俣病:与党解決策を改めて否定−−国賠訴訟で弁護団長/熊本(毎日新聞 2006.7.15)
 
原告弁護団長は意見陳述で、与党プロジェクトチームが検討している新たな政治解決策について「行政の責任が前提にない上、水俣病とも認めない。補償内容も不十分」と話し、「司法救済制度の確立以外、全面解決の方法はない」と強調した。患者会は、各原告が水俣病であることを立証するため、検診の方法や診断基準を統一して作成した「共通診断書」の第1陣50人分なども提出した。

 
 

arcturus2006-08-23

あの雲は稲妻を待つ便り哉

 
「チュールレースのスーツを譲ったの、惜しかったけれど」とおっしゃるので
ならどうしてと尋ねたら、「だってね、この夏はとても堪えたの」て。
ええ、私もすげーキツかったですよ、ハナさん。
 
いまごろは、秋暑しというのよ、と教えてくれた。
タカサゴユリが咲いていますね、空が青い。
 
 

arcturus2006-08-22

blown by the wind

 
拝見しました。

日常的な生活意識のレベルでは、近代西欧人のように「公」と「私」を分けて行動することが不得手なままであり、宗教化した政治の専制を恐れる心性を持つ国民は、一部の人に限られたままなのではないか。
 
政教分離(eirene)

 
「公」と「私」て、きちんと考えたことないかもだ…
 
 
靖国ではなくて別のことだけれど。
http://d.hatena.ne.jp/arcturus/20060313
宗教的倫理感か法による規制か。
それから、そのバックグランドにあるものと、どちらでもなくて学会のガイドライン
ん、もすこし考える。
 
 

「われわれは深く底抜けに退屈している」

arcturus2006-08-17

 

「なぜ首相参拝がいけない?」靖国に若者たち(朝日新聞 2006.8.16)
 
午前7時45分。小泉首相が本殿で参拝をしていた時、拝殿前の参道に集まった参拝客の多くは、片手を高く上げた若者たちだった。手にしているのはカメラ付き携帯電話かデジタルカメラだ。

 
これまではそれほど関心もたずにきたし、たぶん行っても行かなくてもどっちでもよかった場所にこれだけのひとが集まる、ちょっとしたムーブメントに乗っかった他愛ないイベントみたいに…
思い出したのは『“癒し”のナショナリズム―草の根保守運動の実証研究』、この本は

普段の生活をしているうえで「日本人とは」という問いに差し迫って答える必要のない人々が、なぜ藤岡氏らの言動に影響され保守的な運動へと向かったか。それほど経済的な不安もなく、平和に暮らしている主婦が、学生が、そして会社員がなぜ「日本人としての誇り」を声高に叫ぶのか。フィールドワークを通じて、草の根運動のリアリティを探ることにより、吉野論文(『文化ナショナリズム社会学』)に欠けている要素――研究対象としての“市民”――を補っていく。

とする上野陽子氏の「つくる会 神奈川県支部・史の会」参加者についての調査(アンケート、インタビュー)と小熊氏の考察、なんだけど、私にはこの記事の「若者たち」とダブるように思えたんです。
 

彼らの思想の無定形ぶりを考えれば、状況次第で天皇賛美を始める可能性もあるとはいえ、いわば彼らの運動は、「民衆の戦争責任」論にたいする「思想的庶民」レベルの反発が、変形したかたちで表れたものといえるかもしれない。
やや皮肉な言い方をすれば、「天皇から自立した民衆のナショナリズム」は、潜在感情としてはすでに形成されたともいえる。それは何よりも、もはや戦前のように天皇や軍事力などというシンボルに頼らずとも、世界有数の生活水準を享受しているという日常感覚によって「日本人の誇り」をもつことが可能になった状況から生まれたものであろう。しかし、まさにそうした生活保守的な「日本人の誇り」は、いったん経済が不況になれば、歴史という別種のシンボルをもとめざるをえない。90年代の経済的失速とともに「つくる会」が台頭した理由の一端はそこにあると思われるが、その場合でも天皇にたいする関心は(いまのところ)低いレベルにとどまっているといえよう。
(第一章)

彼らには核を探したいという志向はあるが、とりあえず掲げるものが「身体感覚」として根づいているわけではない。逆にいえば、とりあえず掲げるものは、何であっても変わりはない。満足の行く結果が得られなければ、次の核を探すことになる。たとえば23歳の「市民運動推進派」メンバーは、赤い羽根共同募金のボランティア活動や、選挙運動の手伝いなどを経て、「史の会」にやってきている。そして前述のように、中核メンバーの1人は、「つくる会教科書は、内容よりも存在自体に意義があると思う。極論すれば、どんな内容であっても問題ない」と述べているのである。
こうした若い世代の参加者たちにとっては、「ゆらぎ」を抱いていない「戦中派」は感覚的に相容れないだけでなく、邪魔な存在でもある。上野の論文には書かれていないことだが、上野と交流した「戦中派」の参加者は、自分の戦争体験として潜水艦に乗り組んでいた時期のことを語った。そのさい、当時の海軍上層部が現場の戦況を理解しない無理な命令を押し付けてきたことや、戦後に米海軍を見学したときに旧日本海軍に比べてはるかに合理的に運営されていることに驚いたことなどを述べたという。
もちろんこの「戦中派」参加者は、ブラジルや台湾など外国との接触を経て、「従来型」の右派団体である日本会議に参加するに至った保守ナショナリストである。しかしそうした人物であっても、戦中の日本や日本軍が理想的な英雄の集まりではなかったことは、経験として知っている。だが、「あの戦争」を美化したい若い世代の参加者、上野の表現にしたがえば「頭の中で作り上げた“戦時中の日本像”」をとりあえずの核としてアイデンティティを構築したい参加者にとっては、こうした「戦中派」のリアリティはむしろ障害になる。上野によれば、調査当時28歳の公務員は、こう述べている。

日本の近代の戦争における英雄が英雄視されない理由は2つあります。
ひとつは左翼が「侵略戦争だ」「南京大虐殺だ」と騒いできたこと。
もうひとつは、戦中派と呼ばれる人たちがまだ生きていたこと。
前者は仕方がないのですが、後者については時間の問題です。非常に失礼な言い方ですが、人は死ななければ評価されない。ある世代は、その世代が亡くならなければ評価されないのです。戦中派が亡くなって、抽象化されて、初めて人は戦争に正しい評価を下すことができるのです。

「戦中派」の具体的な記憶を消滅させ、自分の志向に好都合な「抽象化」を施したあとに下されるものが、はたして「正しい評価」というに値するかは疑問である。しかし、ナショナリズムの創出に必要なものは忘却であるという社会科学のテーゼを、これほど無慈悲に示している事例は少ないであろう。こうした戦争の「抽象化」によって、彼らはアイデンティティの不安を埋めようとしているのである。
(第四章)

 
 
3月くらいに読んで、とてもおもしろかったのだけど、「受動的な“良き観客”」というのがあって、私もまるでそーじゃん、とか思ったら書いてるのいやんなってプライベートモードにしたのだけど、それもナイーブでだめだめなんだろうけれども。うー
 
 
 
それから

特集:靖国問題を考える(その3止)座談会 終わらない戦後、象徴(毎日新聞 2006.8.15)
 
戦没者追悼で時々引用される言葉ですが、吉田満さんの「戦艦大和ノ最期」に出てくる「日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ(略)敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ(略)日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ」というのがあります。
あの世代の最低限の合意がこれだったと思うんです。生き残った同世代は、彼らの死に負い目があるから、自分たちは国家再建を一生懸命やって、高度成長の日本を作った。それはあの人たちの犠牲を受け止めたからできた、ありがとうございますと。戦後復興に貢献した人たちが彼らの死をそう意味付けるのはやむを得なかったし、ある程度、正しかった。

私は政教分離靖国もよくわかってないです、すみませんです。
でも水俣病をどうして止められなかったのかを考えるときに敗戦を思います…
「やむを得なかったし、ある程度、正しかった」
いつまでも片付かない。8月はつらい。
 
 

arcturus2006-08-16

ラジオ

802、ヘビーローテーションは candy magic
他愛なさを流し続けることのできる平和
 
「私の心の問題」であって守るべき「公約」でもあるという矛盾…
 
「美化するつもりはない」と、言うはたやすい
そう思うのは私が戦争を知らないから、でしょうか
 
 

私は15歳のとき終戦を迎えた。戦争中の記憶として強く残っていることの1つは、ラジオから聞こえた靖国神社の国家儀式だ。「英霊」の御霊を呼び寄せる招魂祭の様子が、厳かな音楽とともに報じられていた。
戦死した人々の名が読み上げられ、その人たちが「神」になっていく。
神社には遺族が集められ、「ありがたいことです」と儀式に感激する様子が伝えられた。ラジオを聞く私の周りも厳粛な雰囲気に包まれて、それを壊すような言動は絶対に許されなかった。
儀式に参列した遺族のなかには肉親の遺骨が帰ってこないことへの不満や疑問もあったであろう。
また戦争後期には、社会の一部に厭戦気分もなくはなかった。靖国は、そうした感情や意見を押さえ込むところでもあった。
 
戦争と追悼 歴史から考える 作家・半藤一利さんに聞く(朝日新聞 2006.8.15)より