「提言をつぶしたとの批判は甘んじて受ける」

arcturus2006-10-06

 
「水俣病問題に係る懇談会」提言書
受け取った環境相は変わって炭谷事務次官は退官、自民党プロジェクトチームの座長は交代。認定審査会再開は依然としてきびしく議員立法による国の審査会設置もむずかしい、ちっとも進まない状況みたいです。

県議会特別委 救済策、早期に 新内閣へ要望相次ぐ(熊本日日新聞 2006.9.29)
 
また、八月末の与党PTで論議された、すべての関係者の合意を前提とした「全面解決」の意味合いについて、村田信一環境生活部長は「裁判の道を閉ざすことはできない。司法救済による決着の余地をPTが認めなければ、(全面解決の)道は厳しい」との認識を示した。
委員からも「一九九五年の政府解決策と同様の決着を望む人と、司法による救済を望む人を分ける方式でやっていくしかない」といった意見が出た。

 
 
熊本日日新聞連載『提言への稜線 攻防・水俣病懇談会』より

(1)火種 過去検証か現在の懸案か すれ違う委員と環境省(2006.9,4)
 
これに対し環境省が持ち出した見解は「大所高所からの議論をしてほしい」「次につなぐ意見をいただき、省の課題としたい」。懇談会の提言は抽象的な内容で構わず、具体的な施策はあくまで同省が判断するとの考えが強くにじみ出ていた。その姿勢は後に、提言作成過程そのものに直接干渉するという手段へと移っていく。
多くの場合、行政が第三者機関の意見を集約する時、「諮問機関」と位置付け、「答申」を受ける形をとる。メンバーに“御用学者”を起用する例が少なくないものの、出てきた答申は一定の拘束力を持つ。ところが、環境省は今回、大臣の「私的懇談会」と位置付け、答申ではなく「提言」を出してもらうことにした。第三者機関の役割を限定的にしようとする思惑が、用語からも透けて見える。

(2)対立 「認定基準」で守勢の環境省 “骨抜き”狙い場外工作(2006.9.5)
 
しかし、懇談会を取り巻く状況は大きく変わり始める。発足から約五カ月後の昨年十月三日、新たな認定申請者でつくる水俣病不知火患者会(大石利生会長)が国、熊本県、原因企業チッソを相手に損害賠償を求める訴訟を提起。「行政は正当な救済をしない。裁判でしか私たちの救済は実現できない」と主張した。新たな訴訟は次第に広がりをみせ、原告総数は半年ほどで千人を突破。認定申請者も急増し、ほぼ月一回の懇談会と並行して二千人、三千人と増え続けた。「当初は想像もしなかった異常な事態。この現実をネグレクト(放置)して進むことはできない」。元東京都副知事の金平輝子はそう言い切った。金平に同調し、解決の道筋を示すべきだとする委員が大勢を占めていく。
こうした中、対立は今年三月の九回目、十回目の懇談会で決定的になる。「認定基準を変えるべき新たな医学的知見はない」「認定基準を変えると混乱を招く」と言い張る環境省に対し、亀山ほか大半の委員は「認定制度を一度リセットすべきだ」などと厳しい批判を浴びせた。守勢に回った環境省は巻き返しを図る。環境相小池百合子は会見で、繰り返し認定基準の見直しを拒否。事務次官・炭谷茂も「関西訴訟最高裁判決は見直しも、(見直しを検討する)専門家会議の設置も要請していない」と反論した。
五月に発足した与党水俣病問題に関するプロジェクトチームも、認定基準を見直さないことで一致。側面から環境省を擁護した。発足前の数日間、東京・永田町の国会議員会館には、メンバーとなる与党議員の事務所を訪れて根回しに躍起になる同省幹部の姿があった。

(3)同じ轍 利用され続けた第三者機関 反省踏まえ行政に抵抗(2006.9.6)
 
宮澤は言う。「権力というのは、本当に恐い。第三者機関と言いながら、自分たちに都合のいい学者を集めたり、自ら用意した結果に向けて強引に誘導したりする。それがだめなら解散させることさえある。自己正当化こそ行政の本質だ」
九月一日、東京・平河町のビルの会議室。提言をまとめる最後の懇談会の席上、委員の元水俣市長・吉井正澄は振り返った。「これまで、国の政策を肯定するために第三者機関が利用されてきた。同じ轍を踏まないと心に決めて論議に取り組んだ」
まとまった提言も、水俣病総合調査研究連絡協議会に関して「通産省の画策は成功した」と断じた上で、「政府の学識経験者を集めての審議会や専門家会議に対する国民の信頼を失わせる役割も果たした」と切り捨てている。こうした過去の反省を踏まえ、委員らは「認定制度は議題ではない」と懇談会に枠をはめようとする環境省に抵抗した。

(4)主導権 柳田草案、環境省に衝撃 「絶対に受け取れない」(2006.9.8)
 
翌日に五回目の非公式協議を控えた六月二十五日の深夜。同省環境保健部のファクスから手書きの文章が吐き出された。柳田の草案文だった。直後、同省幹部らは言葉を失った。「新たな一般的な診断指針を、広範な専門家の参加を求めての会議を編成して作成」「新たな指針は補償問題を前提にせず、純粋に医学的視点から作成。指針により症状の程度のランク付け。認定基準は廃止され、新しい形で指針に組み込む」「施策を確実にするには特別立法が必要」。一文一文が衝撃だった。
環境保健部長・滝澤秀次郎は「こんな提言は絶対に受け取れない。小池百合子大臣も政治的に窮地に追い込まれる」と顔面そう白になった。
認定基準の見直しは、同省にとって従来の補償・救済制度全体の瓦解を意味する。一九九五年の政治決着を受け入れた未認定患者を含め、現行の基準で棄却された人たちの処遇をどうするのか。補償対象者が増え、原因企業チッソの経営が揺らげば、現行の補償水準が保てるのか…。これらの懸念を前に、同省の危機感に火が付いた。
環境事務次官・炭谷茂(当時)はこの柳田草案を「まるで月刊誌に掲載するエッセーだ。公式文書として残れば、手足を縛られ、以後十年、二十年、どんな施策も打てなくなる。委員側が倒れるか、われわれが倒れるか。まさに死闘だ」と言い放った。
そこまで環境省が牙をむくのには、もう一つの直面する理由があった。認定基準の是非を正面から争っている「溝口認定棄却取り消し請求訴訟」や、千百人を超す認定申請者が原告となった新たな国家賠償請求訴訟の存在だ。同省幹部は「原告側の主張にくみするような提言を、訴えられた側がつくった懇談会に出されては困る。裁判で原告側に使われるのは目に見えている」と明かし、「提言をつぶしたとの批判は甘んじて受ける」とまで言い切った。

(5)収拾 流れ変えた座長調整 「解散」持ち出し説得成功(2006.9.9)
 
委員側と環境省の議論は、回を重ねるごとに激しさを増した。ノンフィクション作家・柳田邦男の草案に衝撃を受けた同省は、草案を受け取った翌日の六月二十六日の非公式協議で、すかさず四十二カ所も修正・削除を迫る文書を提示。激論はピークに達した。
■「従う義務」
環境省側は「懇談会の委員は、大臣の要請を引き受けたのだから、われわれの指示に従う公的義務がある」と、本音をさらけ出した。これに対し、「そんな契約を結んで委員を引き受けたつもりはない。そんな義務を負わされているとは初めて聞いた。根拠法令を出せ」「われわれは第三者機関であり、自由に討論し、自由に提言できるはずだ」と委員側。怒鳴り合いだった。
東京・新橋の貸し会議室で、午前九時に始まったこの協議はいったん、環境省側を閉め出し、午後から再び同省側を交えて、午後五時過ぎまで続いた。委員側は、同省が受け取りを拒んだ場合、有志で提言を公表する事態も想定し始めていた。このこう着状態を動かしたのは、座長の元文相・有馬朗人だった。
■大臣の意向
七月十八日午前、有馬は学園長を務める東京・練馬の武蔵学園に、柳田ら提言作成委員を集めた。元水俣市長・吉井正澄はそこで「提言は国民の一般的な考え方、常識を示したもの。行政は、提言を受けてから実現可能か不可能か議論すればいい。どうしても実現困難なものがあれば、国民にその理由を明確にして納得してもらえばいい」と、同省の干渉を痛烈に批判した。
有馬は「懇談会の返上」を口にする。提言がまとまらなければ、懇談会の解散もあり得る。これに対しても、吉井は「委員を辞任してもいい。失うものはない。困るのは環境省だ」と強気の姿勢を崩さなかった。「懇談会の返上」まで口にした有馬には、一方で、「任期中に提言をまとめてほしい」という小池百合子環境相の強い意向も伝わっていた。有馬は、なんとかまとめる方向で調整を続ける。
武蔵学園での調整を境に、柳田草案は大幅に修正されていく。七月末時点で「認定基準は廃止し、新しい形で診断基準に組み込む」「専門家の参加を求めての会議を編成して作成」といった文言は跡形もなく消えた。
■「玉砕よりは」
それでも委員側は抵抗を試みる。元最高裁判事・亀山継夫が書き起こした「認定基準」容認の文案も、「認定基準を将来に向かって維持するという選択肢も合理性を有しないわけではない」と、あえて二重否定の表現を使った。消極的容認の意味合いを込めるためだ。
八月二十四日の非公式協議前までは、認定基準容認の代わりに「新たな補充的な診断基準の設定」を主張。「補償問題を切り離して、純粋に科学的見地から最新の知見を集めて検討すべき」と条件を付けていた。削除に追い込まれた「専門家会議編成」の復活も狙い、補償・救済を扱う項目とは別の「将来へのメッセージ」の項に「水俣病の全ぼうを明らかにするための調査研究プロジェクトの立ち上げ」をいったんは潜り込ませた。「環境・福祉先進モデル地域の構築」「被害者・家族支援担当部局の設置」など、従来にない提言もちりばめた。
そして九月一日―。最終提言をまとめた直後の会見で、有馬は「筋論より現実を選択した。委員の間で判断した結果だ。必ずまとまると思っていたので、解散は覚悟しなかった」と明かした。解散話は説得材料だった。
有馬の同席を敬遠し時間をずらして会見に臨んだ柳田。くしくも有馬と同様に「現実を選んだ」と語ったが、その理由として「玉砕するよりはいい」という生々しい表現を使った。懇談会を解散しゼロになるより、一矢を報いる道を選んだわけだ。

(6)着地 書き換えられたメッセージ 官の干渉一字一句まで(2006.9.10)
 
それでも、委員側はわずかでも失地をばん回しようと、「恒久的な枠組み」の構築にあたって、いくつかの楔を打ち込んだ。
まず、「新たな枠組みによっても却下された人々が、後に司法判断で認められるような事態は回避すること」とした。認定基準と関西訴訟最高裁判決の二重基準によって生じた現在の混迷を意識したのは明らかで、後に司法判断で被害者と認められ得る人も広く対象とすべきという意思だ。
一九九五年の政府解決策を受け入れた未認定患者への配慮とともに、同じ未認定患者間の公平性も要求した。国の行政責任が明確になった最高裁判決を重視し、国が補償・救済の前面に立つよう提言。国全体が経済成長の恩恵を受けた陰で犠牲になった償いととらえ、税金を財源とする国の一般会計から応分の支出を求めた。「恒久的な」という言葉は、九五年の政府解決策が救済の門戸をわずか半年で閉じた反省を踏まえ、将来に向かって門戸を開いておくよう使った。認定基準に照らし認定と未認定に線引きし、「患者」と「被害者」を色分けすることもやめるよう要望した。
しかし、環境省は早速、この楔を軽視するかのような態度に出た。四日、退職前の最後の定例会見となった環境事務次官・炭谷茂(当時)は「追認と言ったら失礼になるが、懇談会と環境省のベクトルの方向は同じ。制度の中身は環境省に委ねられた」との認識を示した。委員の一人は「恐れていたものがやはり出てきた」と歯ぎしりをした。一日の最終提言とりまとめの最後、座長の有馬は「三年後に提言をフォローアップした報告をしてほしい」と同省に注文を付けていた。
水俣病被害者の支援活動に長年携わり、懇談会の傍聴も続けてきたジャーナリスト・広瀬一好は語る。「炭谷次官の発言も含め、あらためて国家権力の恐ろしさを感じた。ただ、この提言のつまみ食いはもとより、お蔵入りも許さない。市民レベルで三年と言わず、一年ごとに進ちょく状況を点検していきたい」

 
 
理由はわかりませんが嘉田由紀子氏(京都精華大教授)は委員を辞任されています。
この懇談会は、公式確認から50年の節目になにもしないでは納まりがわるいので設けただけでしたか。
「懇談会は、行政のやりたいことを推進するためのガソリン」と環境省幹部が言っているとの記事もありました。 新設された水俣病担当室の業務は、「救済策の問題とは切り離す方針」て、わけわかりません。国は動かない裁判しかない、というのは、これからも変わらないのですね。でもその裁判のために、「原告側の主張にくみするような提言を訴えられた側がつくった懇談会に出されては困る」という。
では裁判がなければどのような施策を出せますか。
訴えられている行政に公平な救済策が出せるはずがないという批判は、もうそのとおりだと思いました。

患者会の要望している「司法救済制度」て、どういうことをいうんだろう。