リスクテイク

 
ノブドウが色づきはじめました。
ひと房がばらんばらんに色々で、かわいいですよ。
 
「概して日本人は、積極的にリスクテイクをしたがらない国民性がある」らしい…
国民性とか言われちゃうとちょっとな〜ですけれども慣れていないといわれれば、そうかもしれません。
情報は、いつも開示されてこなかったのに選択なんてしようがない。
エビデンスに基づく十分なインフォームド・コンセントなしにチャレンジャーになるわけにはいかないです。
「自己責任じこせきにん」て追い詰められて、ル・モンドで褒められてもうれしくないですもん。
 
「リスクを恐れるのではなくリスクテイクを恐れる」は、そんなところはあるかも。きっと私にも。
だからって過剰なリスク回避にはしってしまっては、よい選択はできない、たぶん。
子どもにかかわることなら、とくに。
納得のいく選択ができるならリスクも引き受けられるのか、リスクを引き受けるから納得のいく選択ができるのか
信頼できる情報を得て、そのとき、自身に必要と思えた選択の結果ならいい、かな…
 
情報は開示されるべき。
わかっていることも、わかっていないことも隠さないこと、わからないことには謙虚であること。
知らず知らずにギャンブルさせられてはたまらない。
リスクテイクに消極的であるといわれようと、避けられる可能性があるなら避けたほうがいいに決まってるもの。
でも避けられない危険性もあるなかで、わかっていることを頼りに選ぶしかないなら、それがいま必要なら
わかっていないことが含むリスクは引き受けるしかない(て言いきかせるしかない、うう…)
その“エビデンスに基づく情報”を読み解くことに不安があるから過剰なリスク回避にはしってしまう。
ファーストチョイスは大事で、あやまれば先の選択肢は少なくなりがちと思えば…
でも、そうして選んだ結果が後悔しないものとはかぎらない。客観的にも主観的にも。
 
情報自体の信頼性を測ることは、私にはできない。専門性には太刀打ちできない。
でも、できなくても“私が”決めなければいけない。
けっきょく発信者のスタンスが信頼できるかどうかだったりするけれども
「そのひとが大丈夫って言うから大丈夫」みたいなのは、やっぱり危うい。
でもデータを、みょ〜な色をつけないでつなげるために必要なものをもてれば、冷静にリスク評価もできるはずで
「リスクではなくリスクテイクを恐れる」ことは少なくできそうな気はする。
だけど、それだけじゃ、きっとない。
リスクじゃなくてリスクテイクを過剰に恐れた先には、排除があったりするのじゃないかな…
 
 

最高裁は問う 水俣病関西訴訟判決(下)揺らぐ認定基準(熊本日日新聞)
水俣病の専門的な病像論の正誤なんて、私にはわからない。
専門家にだってわからないことがまだ多いのでしょう。
それでも、その選択はその時点で「最善であった」と信頼できない失望にどう折り合いをつければいいでしょうか
「被害者のために」という視点で決められたようには思えないのに…
 
 
コストが大事な要素なのは承知です。
でも、ひとの生命や健康にかかわるたいていのことは、コストを優先できるほど確かな結果予測はできない
私はそう思います。
げ、ゴーマン(笑)