『「学び」から逃走する子どもたち』

 
続きデス。
「学び」からの逃走を克服するためには「勉強」から「学び」への転換をはかる必要があって
「勉強」の文化を支えてきた「圧縮された近代化」も
「勉強」の文化と対応してきた効率一辺倒の産業主義の社会も消え去ってしまった今、
その転換がはかられないなら子どもたちは学ぶ意味を見失ったままになってしまうとありました。
それでも勉強を拒絶し、いやになっている子どもであっても学びには飢えていて、
授業の改革によって教室でひたむきに学びに向かう様子を、多く見てきたそうです。

「勉強」と「学び」の違いはどこにあるのでしょうか。そう問うと、多くの人が「勉強は強制してやらされるもの」「学びは自主的に取り組むもの」と答えます。しかし、この答えの区別は、あまりにも単純で皮相な見方と言わざるをえません。かつて日本の子どもは「勉強」を「自主的」に遂行しましたし、「学び」の中には「強制」されても価値あるものがたくさんあります。
以前、ある市民大学の講座で「勉強と学びの違いは?」と自由に書いてもらったことがあります。その答えの中には、いろいろ参考になるものがたくさんありました。ある受講生の市民の方は、「勉強は絶えず終わりを告げるもの」「学びは絶えず始まりを準備するもの」と記していました。「お見事」とうならされた回答です。また、別のある受講生の市民の方は「勉強は前へ前へと進むもの」「学びは行きつ戻りつするもの」と記していました。これも「なるほど」と納得させられた回答です。
これらの回答が示すように、私たちは曖昧なかたちではあるにせよ、「勉強」と「学び」を意識的に分ける思考を開始しています。「勉強」の文化から決別して「学びとは何か」を問うことによって、私たちは「勉強」から「学び」への転換の一歩を踏み出すことができます。
私自身は、「勉強」と「学び」との違いは、“出会いと対話”の有無にあると考えています。「勉強」が何ものとも出会わず何ものとも対話しないで遂行されるのに対して、「学び」はモノや人や事柄と出会い対話する営みであり、他者の思考や感情と出会い対話する営みであり、自分自身と出会い対話する営みであると思います。
「学び」とは、モノ(対象世界)との出会いと対話による“世界づくり”と、他者との出会いと対話による“仲間づくり”と、自分自身との出会いと対話による“自分づくり”とが三位一体となって遂行される「意味と関係の編み直し」の永続的な過程であると、私は定義しています。

子どもは訊きたがります。
「なぜ??」「どーして??」すぐに答えてやれないことばかりで私はいつも困ります。
ニュースいっしょにみたくないです(笑)
 
佐藤氏は、ひたすら知識や技能を獲得し蓄積する「預金概念(banking concept)」に縛られて
大量の網羅的知識を「広く浅く」、ではなく「少なく深く」学ぶ質的な転換をはかるべきといいます。
さらに「交わりのないところに学びは成立しない」と
誰の助けも借りずに独力で達成できるのがよいことだと考えられがちな「勉強」の個人主義的な文化を否定し
教室において「勉強」から「学び」への転換を実践するためには、他者との対話による
「協同的な学び」の実現が課題であるとしています。

これまでの「勉強」では、誰かの援助を求める学びは、誰かに依存する学びとして否定的なものとみなされてきました。確かに依存に終始する学びは避けるべきですが、自立と依存を二項対立として認識するのは誤りです。実際、今日の子どもの危機的な現象は、自立も依存もできないところにあります。自立した子どもは依存できますし、依存できる子どもは自立できるのです。
学びにおいては自立が依存よりも優先されるべきであるにしても、より重視すべきは、相互に依存し合い自立し合う「協同的な学び」を教室に実現することです。
21世紀の社会が多様な人々が相互の差異を尊重しあって共生する社会であるとするならば、自らのアイデアを惜しみなく仲間に提供し、他者のアイデアから謙虚に学び合うかかわりこそが求められるべきでしょう。個と個の擦り合わせによる「協同的な学び」の実現こそが「勉強」から「学び」への転換を推進するのです。

子どもが掲示板やチャットにハマるのって対話があるからかな〜と、思うことがあります。
その危うさは承知していますけれども、そこには対話があるような気がするから夢中になるのじゃないかなって。
 

「学び」からの逃走の根底には、モノや他者や事柄に対する無関心があります。
「関係ない」という思想こそ、学びにおけるニヒリズムそのものと言ってよいでしょう。世界のどこで戦争が起ころうと、この国のどこで人権が蹂躙されようと、環境の破壊がどう進行しようと、子どもの悲劇がどう繰り返されようと、「私には関係ない」と言ってしまえば、何も知る必要はないし、何も学ぶ必要はありません。つまるところ、大量の子どもたちを捕捉している「学び」からの逃走は、私たち大人社会の中に浸透しているニヒリズムや未来に対するシニシズムが、子どもたちの世界に反映したものと言ってよいでしょう。

いろんな要素のある出来事のはず…
なのに問題はすべて彼にあって自己責任で、だから「私は関係ない」て、ついこのあいだもありました。
 
学習時間が減っているというのは、たぶん多くの子どもにとっての事実でしょうか。
この本のなかでも調査結果が示されていましたし、息子を見ていても私が子どものときよりも
減っていると実感しています。でも減っているから問題だと言うつもりはありません。
私は、学ぶことが嫌いな子どもはいないと思っているのです。
だって、わからないことを知りたいと望むのは自然なことじゃないですか、
自身に必要だったり興味があることなら知りたいでしょう??
得手不得手もあるし我慢もあっても、ゲームともまた違う“たのしみ”はあって、
でもそれを教えてやれてなくて、それではつまらないと思うのです。
学ぶべきとされる内容と自身との関係性がまったく見えなかったりすれば知りたいとも思わなくなるかもですけれども。

先進国であれ、開発途上国であれ、20人内外の子どもたちがテーブルを小グループで囲んで遂行する協同学習(collaborative learning)が基本となり、教科書は脇役になって主題を中心に多様な資料を活用して学ぶスタイルが基本になりつつあります。この変化は、小学校だけでなく、中学校でも高校でも進行しています。

このスタイルがいいのかどうか私にはわからない。なにか具体的な提案ができるではありません。
でも、PISAによる評価が下がったからとかじゃなくて、やっぱり変えなければいけないとは思うのです。
社会にないものは学校にもない、そんなものを求めてもうまく機能するはずはないでしょうもの。
うまく機能しないなかで毎日を過ごさなくてはいけなくて、結果「学力低下」と追い立てられる。
それではあんまりだと思うのですよ。
習熟度別指導は違うと思っているし、道徳教育の重視にも疑問です。*1
どうすればいいのか、なにができるかな。「学びとは何か問うこと」て、
だけどあまりに遠くて、そのあいだも子どもは学校に行くのにな…
 
 
歴史的な要因もあってブレイクスルーなんて望めないとしても、それでも
「要するに勉強しなくなったということ」などと言ってしまうのは、
大人として恥ずかしいことと思わないではいられません。
 
 

*1:近年の日本の教育は「心の教育」と「生きる力」を改革のスローガンに掲げていますが、「心の教育」にしろ「生きる力」にしろ、外国語に翻訳不可能な日本語です。これらのスローガンを英語に翻訳したとしても、海外の人々にとっては、なぜそれが教育の改革の標語になるのか、皆目見当がつかないでしょう。さらに重要なことは、「心の教育」にしろ「生きる力」にしろ、当の日本人にとっても説明不可能な「ムードの言葉」である点です。これらの標語は「日本人の教育をしよう」というナショナリズムを暗黙の了解として確認するところに本義があるといってよいでしょう。