『息つく空間に触発されて』を拝見しました。
触発されたのじゃありませんけれど(笑)国歌について考えていたこと。
 
“機能面での国家”の縮小を補うために“シンボリックな国家”を大きくして
求心力として利用するという思惑なら(いまでも役に立つかどうかは別にして)理解できるけれど、
それだけではなくて「私たち」のほうにも求めている部分があるのでしょうね。
くにがもえる系の話題の盛り上がり方には、いつもびっくりしちゃうんです。
精神的なよりどころとして、あるいはよりどころがあることを確認したいために、
ある種ナショナリスティックなものを必要としているように見えるのも「不安の裏返し」でしょうか。

私の関心は、異なる他者との対話空間の構築という意味での公共性とか市民的な利益があるんじゃないかなぁと。こういうのは、政治参加へのプロセス的な正義だけでは説明できず、寛容という実体的な価値の次元だというふうに思うんですよね。

公的なものを国だけに一元的に収斂させてしまう公共性ではない、集団のなかに「私」を埋没させない
そんな公共のありかたを考えたいし、そのような空間で子どもに子ども自身のために学んでほしいと思うけれど
そのために「それがリスクヘッジ」なほうを強調しなければいけないことに、私も苛立ちを感じることがあります。
まだ、時期が来ていないのかって。
 
その時期が近づくかまだ遠いのかどちらにしても、学校の役割は大きいと思うのです。
でも、とてもむずかしい。
教育を地方が担うといえば格差への不安が言われますし実際にあるでしょうし。
「国には最低限の保障を」というけれども自己責任が厳しく問われるなかで、その“最低限”の範囲を
大きく求める傾向があるようにも感じています。
学力低下とか地方財政の悪化のようなわかりやすい不安材料がクローズアップされていますから
しかたのない部分はあるでしょうけれども。
そこに教育委員会は「国歌は大きな声で歌いましょう」を出してくる…
「地域で子どもを育てよう」としながら公は国・中央でしかないかのように
公共性といえば黙って従うことを意味するかのように、です。
それでは「異なる他者との対話空間の構築という意味での公共性」なんて育てられるとも
またそのような方向性で考えられているとも思えません。
排他性ばかりが目立つ公共のありかたを提示しているだけであって、
多様であることに価値を見出すことができるとは思えないのです。
しっかり計算があるでない場当たり的にもみえるけれど、それはそれで気持ちがわるい。
国歌って、とてもヨリシロ的ですもの…
 
 

anhedonia 『君が代って「明るくきれいな声」では、絶対に歌えない歌ですよね。
君が代は、歌う人とそれを聴く人がいるのが一番自然だと思います。「大きな声で歌いましょう」では君が代の持つ厳かさが損なわれてしまうように思います。
結局、彼ら自身は「君が代」に対して敬意なんて微塵も持っていないのでしょうね。』(2005/01/28 22:02)
 
chisya 『「明るくきれいな声で合唱」というのに違和感あって想像できなくて、だからこわかったです。
でも「私の耳の底にはっきりと残っています」て…』(2005/01/28 23:14)
 
youarai 『こんにちは。コメントありがとうございました。
国旗国歌にしろ今後はたぶん「おおきみ」にしろ、何か象徴を確固たるものにして踏み絵にしようとする動きは見過ごせなくもあります。ウチの県でも妙な人材を教育委員に仕立て上げられてしまったので今後の不安は募りますよ。』(2005/01/30 11:42)
 
chisya 『こんにちは
どうして教育委員会がここまで国歌にこだわらなければいけないでしょう。
【時の政治に左右されることなく住民の声を地域の教育に反映させよう】のための制度であるはずですけれども誰の声を反映しているのかわからない、私はそれが不安です…』(2005/01/30 23:24)
 
swan_slab 『安心・安全・自己責任 ヒロシです
小さな政府を志向するわりには個人の自由を制限するという矛盾した状況を考え続けたいですね。』(2005/02/03 22:20)