幸福亡命

 

出生率の目標値設定を 川崎厚労相朝日新聞 2006.5.14)
 
川崎厚生労働相は14日、千葉市で開かれた少子化問題タウンミーティングで、個人的見解としたうえで「(出生率が)これぐらいなら我が国は大丈夫というメッセージを出す時になってきている」と述べ、政府が6月にまとめる少子化対策によって出生率をどの程度まで回復させるのか、目標を掲げるべきだとの考えを示した。ただ「出産は個人の自由で政府が干渉すべきではない」とする慎重論も政府・与党内には強くあり、議論の行方は不透明だ。
川崎氏は、「年金制度は2050年に出生率1.39なら大丈夫。年金制度がきちんと回るという中での出生率目標を出すべきだ。目標値を持たずに10年後、20年後の政策を展開するのかというと、私は持った方がいいという論者の一人」だと話した。

 
 

それだけではなく、立派なからだを作るのが本人のためではなくお国のためである、という彼の価値観も納得できなかった。さらにそのうえ、医院からの帰途、この医師の理不尽な「診断」に対し、ひと言も言い返せなかった自分自身にも腹を立てていた。
 
愛国者が威張った時代(激高老人のぶろぐ)

 
 

重度障害者、フィリピンで活路 物価安く自立生活が可能(朝日 2006.5.8)
 
首から下が全く動かない重い障害をもちながら、自立した生活をしたい、とフィリピンにわたった障害者がいる。日本で限界を感じた自立生活を、物価の安いフィリピンで実現しようというのが理由だった。わかっているだけで、日本からフィリピンに移り住んだ重度障害者は10人近いという。
四肢まひの寺本一伸(かずのぶ)さん(48)。7年前、単身フィリピンに渡った。ミンダナオ島に一軒家を借り、フィリピン人ヘルパー3人に24時間の介護を受けている。
金沢市出身。小学校教師だった16年前、交通事故に遭い、首から下が全く動かない頸椎(けいつい)損傷になった。
障害者施設で3年過ごしたが、失禁でベッドを汚した入所者をしかり付ける声などが響くのを聞きながら、耐えられないと思った。買い物のための自由な外出は年1回だった。
東京都内にアパートを借り、学生ボランティアらの助けを得て一人暮らしをしたこともあったが、自分の思うようにはいかず、落ち込んだ。
そんな時、フィリピンに日本人の障害者が滞在できるNGO施設「日本人身障者の家」があるのを知り、2カ月間滞在してみた。気候は暖かく、フィリピン人ヘルパーの世話も心地よかった。
帰国したものの、日本での自立生活は難しいと感じ、かばんと車いす用のアルミ製スロープ板を持ちフィリピンへ移ったのは、99年3月だった。
雑誌に求人広告を出してヘルパーを雇い、中古のワゴン車を買って週3回は運転手を雇い、買い物や会合に出かける。口にくわえた割りばしで、パソコンを操作し、日本の友人ともメールをやり取りする。ヘルパーらの人件費は月5万〜6万円程度。月11万円の障害者年金などでやり繰りする。日本ならば70万〜80万円はかかるという。
「一歩間違えると、とんでもないことになる可能性もあるが、施設での生活を考えれば何でもない」と寺本さんは話す。
寺本さんが日本から出るきっかけになった「日本人身障者の家」は、北九州市で不動産業などを営む向坊弘道さん(67)が79年、フィリピン・ルセナ市につくった。冬の間だけ日本人の重度障害者が泊まれる施設で、向坊さん自身、首から下が動かない障害者だ。設立以来27年間で、日本から訪れて滞在した障害者は延べ200人。
ここでの滞在を機に、フィリピンに移り住んだ重度障害者は、30代から50代で、寺本さんのほか7人はいるという。

 
〜人間らしい介護をもとめて〜浜野美華の取材日記(2005.3.16)