「壮絶な水掛け論」

arcturus2006-06-11

 

加藤医師逮捕を契機に、一人医長などの不十分な体制の産科は問答無用でどんどん廃止することが可能な社会的状況となりつつある。それ以前には、いくら一人医長体制の産科業務が危険だからといって、それを廃止することは決して許されないような社会的な状況にあったことは忘れてはならない。
 
朝日新聞 論座:事故は避けられなかったのか 検証:福島県立大野病院事件(ある産婦人科医のひとりごと)

少しでも専門的になるとすぐついて来れなくなります。「わからないから理解しない」とでも表現したらよいでしょうか、ニュートン力学しか知らない人間が特殊相対性理論を理解しない態度と言えばよいでしょうか、算盤で気候変動が計算できないとでも表現すれば相応しいでしょうか。
 
読んでると疲れる(新小児科医のつぶやき)

少なくとも、大野病院の事件は、インフォームド・コンセントや子宮病理標本を含め、まだわかっていないことが多すぎると思います。にもかかわらず「診療上ある一定の確率で起り得る不可避な出来事」と結論付けるのは、性急すぎるのではないかというのがわたしの考えです。
 
福島県立大野病院事件について医師の方々へご質問(とりごろうblog)

気になってるワード3つの2つが出てこない…
ふう、とにかく読む。書くのはもすこし考えてから。
 

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060604#c1149497907
私自身できるだけ安易に、でも大切なことは全て含めて、とICをする努力をしていますが、一般的な合併症と対処方針以外には話すことができません。手術は予想外のことが起こりえます。そのとき、「そんなことは聞いていなかった」といわれ、それが問題とされるなら手術はできないと思います。「なにがあっても全て医師の裁量に任せます」というところにサインをもらわねば手術ができないのか、と悩んだこともありました。患者さんが治療を理解し、治療方針を選択するのが理想です。よくわかっていますが、そうできないことがあることもご理解ください。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060604#c1149519314
あなたの言っていることは専門医のなかで議論すること、聞くならこの件に関して立ち上げている多くのHPで専門家に聞けばいい。こんな風にオープンで聞いて医者も非医者も専門家も同等に議論できると思うのはやはり、専門性への尊敬がないからではないのですか。spれからこれが刑事で劇場的に逮捕されたのでなければあなたの意言うような怖いくらいに医者が同様に反発することはなかったのです。それを抜きに事柄のdetailのただしさにこだわり、口では自分も刑事はおかしいと申し訳のように書いている。地方医師さんへの返事をみなければあなたへの反発を反省してたのに。感情的な文章となりましたが。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060604#c1149523235
全ての症例に最高の腕の医者と無限の資源と無限のマンパワーを注げない以上、医療でおきた不幸な結果は「もう少し準備しておけば助かったかもしれない」例ばかりです。
であるならば、準備が結果的に不足していたことを非難するのは不当です。なぜならばそれは単に結果がうまくいかなかったことを責めているに過ぎないから。
ならばその判断基準をどこに求めるか。事前に包括的な基準を提示するという立場を取らない限り、専門家の慣習に求めるしかないように思えます。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060604#c1149532088
そう考えると、インフォームド・コンセントというのは、一種の共同体的幻想、自己欺瞞なのではないでしょうか。
…そこまで言わないにしても、理想的なインフォームド・コンセントの実現のためには、全ての患者さんに対してどれほどのマンアワーを割くことが必要となるのか、検討しなければなりません。一人の医師が持続して行える作業量には人間としての限界があります。現実に限られた診療時間の中でインフォームド・コンセントに割ける時間を増やせば、他のことはできなくなるという経路依存性は不可避です。医者を増やすにしろ、他のことを止めるにせよ、当然、そのコストを国民は負担するのか否か、最終的には政治的な対立が生じることでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060604#c1149540964
後からいろんなことが分かるとしてそれは結果論です。参考にはなるでしょうが、後から出てきたものを全てまとめて事実としてそろえ、それを元に断罪することは現場の思考回路と大きく異なります。それができるのは神のみです。病理の結果にこだわりをお持ちのようですが、病理は後付けの最たるものです。「病理学的にはこうだったのになぜこんな対応をしたのか」とは後出しじゃんけんの最たるものです。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060604#c1149551970
わたしが医師の方々に医学的な論戦を挑んで、そうやすやすと打ち負かせると思うほど傲慢ではありません。PubMedを引け、海外の論文を読め、というご指摘には、素直に頭をたれるしかありません。しかし、患者側にいったん「真相」を隠していると思われたら、裁判外の医事紛争システムなんて作ったって、そのうち患者側から信用されなくなるのです

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060606#c1149567763
システムに責任を負わせるのは簡単です。しかし、このような医療システムにはそれを管理し、運営する責任者が必ずいる。システムという非人格的なものに責任を負わせ、人格的なものに対する責任を免責してしまうことは、無責任を助長することになりよろしくない、というのがわたしの考えです。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060606#c1149569168
システムを考えるということは社会全体の態度を考えるということです。医療費どんどん削減されているのはご存知でしょう。お金をかけなければ当然安全も確保できなくなってくるのです。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060606#c1149572553
診療行為の裁量権を与えられた医師である以上、責任をゼロにはできないのではないかと思いますし、また、システムの運営責任者の責任も同時に問うていかねばならないと思います。いずれにせよ、刑事責任を負えと主張しているのではないことは、もう理解していただけるものと思いますが。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060606#c1149574297
私は、もはや医師の裁量権は、結果が悪かった場合一切認められない時代なのだと考えています。わたしがもし、一般病院で働いていて、「一般病院で分娩してもかまわない」と考えられている症例に出会っても、万が一悪い結果が起きた場合、判断ミスとして責任を取らされることを考えて医療センターに送るでしょう。
あなたも仰っている通り、「結果責任は負うべきではないかと思っています」と考える人が多いので、「一般病院で分娩してもかまわない」症例などあるはずがありません。これが、結果の重大さに囚われて、「犯人探し」に終始してきた、この国の末路ではないかと思います。繰り返しますが、今、この国で、「一般病院で分娩しても、万が一の結果であっても遺族側がかまわない症例」などありえないと考えます。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060606#c1149574899
産科に限定してのデータでないので恐縮ですが、民事裁判における医療訴訟の原告側認容率は毎年3〜4割です。医療事故被害者の中には、訴訟を起こす患者の何倍も泣き寝入りがいます。医師からみると、「裁量権など許されない時代になった」と見えるのでしょうけれど、患者側からは「医師の裁量権ばかりが拡大解釈だれている」と見えるのですよ(どちらが正しいと主張しているわけではありません)。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060606#c1149582104
この記事を読んだ読者は「なんだ。医師ってのは偉そうだねー。死亡事故を起こしたのに自分たちは尊厳だってよ」と思うでしょうね。これは明らかにマスコミが意図的にミスリードしようとしたものでしょう。今回の事件に関して、少なくとも医師の側からここまで露骨なミスリードはなかったと思います。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060606#c1149600468
結局は確率、より正確には「ある確率を提示された場合に、それを高いと捉えるか低いと捉えるか」の問題になるでしょう。さらにこの確率は、個体差もあり正確な予測が不可能です。個体差の要素を減らすために(許容される範囲で)事前に検索を進めてゆくわけですが、これで確率の範囲をある程度に絞り込んだ後は、それこそ当事者の主観に基づいた感覚的な判断です。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060607#c1149676370
私は法的責任を問われる程のものかどうかは別にして加藤医師には判断の誤りがあったと考えていますが、彼は既にそれを補ってあまりあるほどの不当な制裁を受けているのではないでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060607#c1149689652
「医師の自浄作用」という言葉がしばしば用いられますが、自浄作用の最大の原動力は(医師免許剥脱でも社会的制裁でもなく)この「誇り」であり、その意味で私はここに集う人たちの「自浄作用」を信じています。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060607#c1149710647
私には価値観や経験という言葉の定義はできません。しかし経験という、数量化困難な意味で非科学的な価値観も、同時にここには存在し、実際にそれが医療そのものでもあります。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060607#c1149723332
わたしは「報告書」にも、「声明文」「陳情書」にも欠けているのは、「現時点でわからないことは、わからない」という前提から、考える姿勢だと思うのです。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060607#c1149723332
これが医師にとっては低レベルの認識であり、「すぶり」のようなものであることは、みなさんのご批判でよくわかっているつもりです。でも、医療裁判における「医療水準論」の考え方では、これは医師が最低限の注意義務を負わされる部分であり、それに対する結果責任を問われることになるのは、かなり確度が高いとわたしは考えているのです(だから、加藤医師には「過失」があったと言い立てたいのではないことを、何度でも強調させてください)。わたしが「教科書」や研究班の「報告」を持ち出す理由はそういう意味だとご理解いただければと思います。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060608#c1149751816
これらの数字はおそらく現時点で、世界のトップか少なくとも5本の指に入るでしょう。周産期医療というのは、医療水準を示すよい指標だと思います。他の分野では、なかなかここまできれいな比較ができません。ですから、僕など他の科の医者がこうしてよその科の問題に口を出してきているのだと思います。
周産期医療でこれだけの数字を達成していて、いったいこれ以上なにをどう責任をとって、反省すればいいのでしょうか。
産科だけでなく現場の、とりわけ病院勤務医はもうやれることはすべてやっています。
もっと患者の話を聞く?もっとICに時間を割く?新たな医療システムの構築?学会や医師会に働きかける?
現在の勤務医にそんな時間がいったいどこにあるというのでしょうか。
いささか極論になりますが僕の考えでは、既に医師の側は果たすべき責任は果たしているし、反省すべき点は反省していると思います。もちろん問題がまだないわけではありませんが、現在の医療のおかれている環境の中では相当程度やっています。少なくとも、非医師の方々よりは圧倒的にしています。
今度は、医師の側ではない。行政、マスコミ、国民の側が自らの責任を考え、反省する番だと思います。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060608#c1149808676
それにもうひとつ、「このレベルはここでやらなきゃ上の病院が破綻する」という判断もあったではないでしょうか。公立病院の医長をやっている、中堅の医師であるならば、高次の病院も知っているでしょう。できることはできるところでやらなければ、まがりなりにも稼働しているシステムが飛ぶ、そういうことを知っていたのではないでしょうか。
「自分でできることは自分でやる、そうやってシステムを支えあう」
高次へ送るリスクの見積もりの閾値をなるべく高く維持しておかなければ、高次の病院は機能しません。閾値がワンクリック下がるごとに高次機能病院への患者の流入は増え、システム全体がハングする。
「多少のリスクを背負ってでも自分でできることは自分でやる、そうやってシステムを維持する」とういう多くの産科医の努力によって、世界屈指の低周産期死亡率は、達成されたのではないでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060608#c1149812400
おっしゃるとおり、医療裁判においては被害を受けたと訴える原告側に「立証責任」が課せられてしまっています。原告側は素人であるにもかかわらずです。それが、医療事故被害者の医療に対する不信感を助長する原因になっている。それを言い出したら、紛争になったときに、「過失」の証明の応酬になってしまい、医師も患者も不信感を増幅させるだけで不幸になる。だから、裁判外の紛争処理システムや中立的な事故調査システム、無過失補償制度をつくれという議論になっているわけですよね。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060609#c1149827586
社会・遺族はどのような手続きをしたら調査を受け入れるか?
現代の日本では、遺族は、医師が「不可抗力による医療事故」と考えている限り受け入れないと思います。
医師にしてみれば、たくさんの患者さんの中には「やむを得ない死」があることを統計的にも実感でも知っています。しかし遺族にしてみれば、妻の死は唯一無二ですから、どんな説明をされても「やむを得ない死」であるとは受け入れられないでしょう。
周産期医療がプアで、母児ともにバタバタ死んでいた頃ならば受け入れやすかったのでしょうが。
産科医の涙ぐましい努力の結果、世界で一番母児が死なない国になったからこそ、稀に起こる死が受け入れられなくなり、産科医が糾弾されるようになったのは、とても皮肉なことですね。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060609#c1149830072
加藤医師の逮捕が不当とおっしゃるのはよくわかります。「末端で働く医師を生贄のように逮捕して、医療の何が変わるというのか」という医師側の叫びは、十分理解しているつもりです。でも、あえて、幾度も申し上げているように、まだなにもわからないという前提で、もう一度事故を見直すことが必要だと思います。そうしないと、医師たちには事故を中立公正に裁く能力はないとみなされて、かえって警察・検察の介入を助長させることになると思います。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060609#c1149858019
刑事責任であろうと、民事責任であろうと、一方の当事者を無視して、事を決するのは欠席裁判と一緒であるということに、みなさんに気づいていただければ、それで十分だとわたしは思っています。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060609#c1149905515
一つ極端な例を挙げましょう。もし医療事故が起こったときに、医師の側がすべて正直にさらして、謝るべきところがあったら率直に謝ったとします。そうすれば、
1)「被害者側」は、「良くぞ正直に話してくれた」と許し、民事などの賠償請求を行なわない 
2)行政は、「正直に言えば、刑事罰も課さないし、医道審議会にかけるなどの行政処分も行なわない、
3)マスコミは「医師はなんて正直なんだ。この国の医療はすばらしい」と美談調で記事を書く。
こんな風になるのであれば、医師もいくらでも手の内をさらすでしょう。しかし現実はどうでしょうかね。
1)よく、「被害者が訴えるのは真実を知りたいためだ」といわれますよね。
真実を知った被害者は、それだけで気が済むのでしょうか。病院側に過誤があった場合はやはり損害賠償へと進むのではないですか。
以前に裁判関係者に聞いたことがあります。「訴える側は誠意を見せろ、誠意を見せろって言うけど、誠意ってのは結局お金なんだよなー」
また、病院側の「真実」が、患者側の想像する「真実」と異なっていることだってありえます。その場合は、いくら真実を語ったところで信じてもらえない可能性があります。実際に既にそうなってはいませんか?
2)残念ながら、素直に警察に届けたばっかりに何らかの処分を受けた例なぞごまんとあります。
裁判官によって認められる医療事故の民事訴訟の損害賠償額は、殺人などの重大な犯罪によって引き起こされた損害賠償額よりずーっと高額です。
3)これも残念ながら、ワシントンの桜の木は遠い昔話です。記者会見に臨む院長などは、自らが犯罪を起こしたがごとき扱いをされています。
べつに、病院側のうそを推奨するわけではありません。しかしこういった現実に直面している医師の側が、防御的姿勢になるのはやむをえないこととは思われませんか。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060610#c1149907561
大野の事件を123便に例えましたが、むしろ日本の医療全体が123便のような状態にあると言った方がより正確かもしれません。123便の事故報告書に述べられた経過が真実だとしたら、大野は圧力隔壁です。長年のストレスを金属疲労として溜め込んできた機体が、最も負担のかかる部分で破壊され、コントロール不能な状態となってしまった。これも不謹慎な例えながら、すでに「これは駄目かもわからんね」とつぶやく状態です。元のルート(が最善のものか否かは別として)に戻すことは到底望むことが出来ず、うまく軟着陸させることができるか、できなければ墜落後どれだけ早く救出に向かうことができるか、その段階です。いまここに医療者が書き込んでいる内容も、10年後にはあれが遺言だったとわかるのかもしれません。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060610#c1149912048
患者さんが亡くなってなんらかの落ち度も感じない医師はいません。それは司法や社会が罰するのとは別の次元の問題です。とりごろうさん達の求めているのは神の領域です。全ての臨床医を罪人と断罪するレベルです。
医療の不確実性を認めない限り医療はどんどん萎縮し、滅亡するのみです。至らぬ点は多々ありますが、医療界は常に努力してきましたし、これからも努力します。次はマスコミや社会の番です。
一方的に求めるだけでなく現実可能な対応を一緒に考えてください。医療界を叩いてももうなにもでません。不可能なことは不可能なのです。努力しても不可能なことはどうしようもありません。なんども繰り返しますがこの風潮のままでは医療の崩壊あるのみです。困るのは国民です。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060610#c1149917620
福島の被害者の方はまだそういう気持ちになれないかもしれないけれど、ミスがなかったと一致して言っていただければ案外諦めがつくものです。マスコミからミスがあるといわれればあきらめられないのです。声明書は確かに被害者の方をみていない不満は残りましたが、それでもひどく傷つけるものではなかったように思います。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060610#c1149918724
医者にとっては答えがそこに書いてるも同じなのに、其の後に及んでもなお「わからない」「医者も分からないというべきだ」を連発するtorigorouさんは何の説得力も思慮深さも感じられず、ただ医者の反発を招くだけなのでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060610#c1149923771
小松秀樹著「医療崩壊」でも提案されているような、第三者専門家による医療事故調査委員会と、原因に関わらず医療事故被害者に対して速やかに経済的救済をする無過失賠償制度の設立が急務だと思います。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060610#c1149926035
民事でカルテも見せずに、お金で解決なんてもう限界ですよ、誠意があれば殆どの患者は、納得します。誰も医療が完璧だなんて、これっぽっちも思ってませんし、100%なんてありえないです。それは、工業製品を作っても同じです。
もうひとつ、たびたび耳にする『無過失賠償制度』確かに必要かも知れませんがこれと医師の免責とは、無関係にした方がいいと思います、と同時に、この賠償金は、まさか税金からではないでしょうね?(笑)

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060610#c1149929216
患者と医療者が敵味方で争ってもなにも進みません。医者がいままで悪い勤務状況を黙っていたのが悪いような言い方をされますが、医師の使命感からあえて口にしなかったのです。ほんの10年前ぐらいはそれこそ「3日、4日は泊り込んでも患者のためなら当たり前だ」と言われていました。私自身もそう思ってました。しかしこの10年医療環境の変化から仕事量が増加し患者を診るより書類を書いている時間が長くなるような医療現場になっていて根性では通用しなくなってしまいました。本当は安全管理の面からはいち早く休養をとったり、労働基準を尊守しなければいけない職場なのに。これを容認していたのは厚生労働省です。保険医療は社会主義で厚生省の通達により病院は動くのです。突然「通達」というファックスが病院にとどき来月から「医療費をこのように変更します」と届くわけです。すると病院はあわててそれに合わせて動きます。大多数の国民は医療費が値上がったりシステムが変わったのもわからず病院に文句をいったりしますが、変えてるのはすべて厚生省です。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060610#c1149930261
ある難しい手術の診療報酬(簡単に言えば手術の値段)が10万円でした。
あるところでこの手術に失敗し、1億円の損害賠償の判決が出ました。
この病院では、たかだか10万のお金を得るためにその1000倍ものリスクを背負っていたのです。
難しい手術です。どんな名人の医者でも1000回連続で成功させられることはできないかもしれません。そうであれば、仮に手術を行なえば幾人もの患者さんを救うことができたとしても、安全管理の面からも経済的合理性からもこの手術を行なってはいけません。かくして医師は自分と自分の病院からは、ひとつの医療事故の種をなくすことができました。
今まで医療従事者というのは、患者さんのためという一種のヒロイズムに酔って、このような治療を行なうにあたっての危険性を無視してきました。
ところが、病院にとって経済的合理性のない治療から撤退すれば、あら不思議。医療事故は少なくなるし、自分ももっと余裕がある生活ができるではありませんか。
多くが医師がこのような事実に目覚め始めてきているのです。安全管理の徹底だとは思いませんか。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060610#c1149930401
先人達は難しい病気に対して挑戦し,新しい手術法や治療法を開発してきました.それまで多くの失敗もあったことでしょう.しかしそれが現代医学の発展に繋がったと信じます.しかし今回のような「医療事故=逮捕」では難しい病気に挑戦する意欲は無くなるでしょう.現場での事故を回避するための最大の手段は,難しい病気には手を出さないという委縮医療になりつつあります.分娩を辞めてしまった病院が増加したり,研修を終えた若手医師たちが医療訴訟や逮捕を恐れ外科,脳外科,産婦人科,整形外科などを避けている事実はすでにご承知のことでしょう.さんざん議論された事です.医師にとって逮捕は医師生命の終わりと同じです.

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060610#c1149936049
保険医療制度という制約の中で動く医療システムが疲労して、医療サービスの質的低下は起きつつあることは間違いないことと考えています。しかし残念ながら、多くの医師側の問題意識とは異なり、多くの国民にとっては容易に理解できて、また相互に共有できるような急迫した問題意識にはなっていないようです。恐らくは増加しつつある医療事故も、まだまだ対岸の火事といった認識しかないのが実態ではないでしょうか。本来は国家が管理する以上、責任も持つべき医療の質が、実は静かに低下しているのにもかかわらず、なぜか医療に対する不満はうまく分断されて、正面から行政の不作為などの問題として批判することには、つながってきませんでした。直接的にかつ安易に安直に、目の前の病院や医師に向かっての批判や民事訴訟の乱発と言う形で、表現されてきたに過ぎないように思います。
医師達が沈黙しがちであったことにも原因があるでしょうし、メディアの報道にも問題がなかったわけではないでしょうね。医療や医師に対する偏見に満ちた報道がなかったわけでもないと思います。
わたしが思うに、非常に不幸なことには、常に医療に無謬性を求めてしまう国民や、倫理観のために、むしろ生真面目な医師達は今まで、ひょっとすると「何の文句」も言わず、「人的余裕もない医療機関」で、「厳しい待遇と薄給」の中、文字通り「精根尽きるまで愚直に頑張り過ぎてしまった」のだと思います。こうした現状に対して医師達が持っている忸怩たる感覚や不満は、同じ医師であるので分かります。挙げ句の果てに今回のような逮捕、起訴といった案件が出てしまった衝撃の大きさは、計り知れないものがあります。遂には殉職者のみならず逮捕者まで出してしまった訳ですから。もちろんtorigoroさんが、逮捕、起訴を妥当とみなしていないことは理解していますし、ここまでは現状認識についての個人的見解です。
さて、もし医療行為が理想的かつ完全な結果を、契約上に含めることができる時がくれば別でしょうが、多くの場合、結果における不完全要素を暗黙の裡に同意、あるいは飲み下した形で患者が医療行為を受けてきたのだと思いませんか。場合によって、ある種の「諦め」を持つことで、患者や家族は納得してきました。医療側においては最善を尽くしても達成できない予後を、「敢えて多くを語らないことで語る」といった形で、意思を通じてきたような気がします。
患者側は「こと自分の治療を行うにあたって過ちは冒さない(だろう)」
医師側は「可能性の全てについて真実を知らせてしまえば、患者は混乱に陥る(だろう)」
こうした期待や認識で「触れないで済む問題であれば触れないでおこう」としてきたのではないでしょうか。
強いては主張はしないものの、医師側の「無謬性の示唆」による実体のない幻想が、ついには綻びを見せ、実体に近い姿が炙り出され、医療とは自分たちにとって何なのかといった根源的かつ切実な問いに、国民もメディアも辿り着いたわけです。
そういった世論の変化があることを相当に確信すればこそ、刑事司法すらも遂に本格的に動き出したのではないかと思っています。
そうした意味ではいかに医師側の意識が、民意や権力側の意思とかけ離れてしまっていたのか、という点についても言及されなければならないと思います。
ここまでが、長ったらしいけれど前提となる、わたしの認識、
さて、医療行為にはリスクは当然伴うわけですけれども、その測り方には立場立場で見方が当然異なるわけです。具体的なリスクの水準は、政治や医学のレベルなどの要素が絡んでくるでしょうが、最終的には学問的、技術的レベルと同時に、医療を受ける側の要求のレベルも大きな要素でしょう。医療を供給する側が「自明」と思われる水準と、必ずしも医療を受ける側が要求する水準とは同じではありません。むしろいつも異なることでしょう。
つまり、どの範囲を「不可避」と考えるかの物差しが違っていて、少なからずの医師達は医療行為の限界とリスク水準の高さを熟知しているにもかかわらず、患者側とはその物差しを共有できていないわけです。
患者側から見れば、本当に不可避だったのか、それしか方法はなかったのか、やむを得ない結果だったのに対して、むしろ厳しい基準で測るでしょうし、医師側は「そこまで当然のこととして要求されては、医師をやっておれない、医師は減る、医療が崩壊する」といった思いと反発を生むこととなるわけです。
本当に全力を尽くし、やむを得ない結果であり、不可避であるのかについては、リスクの範囲を、医師側は大きく見積もり、患者側は小さく見積もることになるのは必然かもしれません。その基準のどちらに妥当性があるか、結局は、言い分が合わずに、紛争化して民事訴訟と相成るわけですよね。
わたしにしますと、ここまでは許容範囲内です。が、やはり逮捕、起訴といった国家権力の介入を呼び込むことになるのであれば、そういった基準を明確にさせるための方策が成された方が望ましいと考えます。法廷のなかで、最低限の倫理である法律を基準にして争われるよりは、医師側だけでなく患者も含めて、多くの意見が集約でき納得できる方向で大まかな基準を決めていく作業が求められているように思います。
もちろん個別的、具体的には大変困難ですが、刑事介入の結果には何も得ることがないことを確認し合い、医師vs患者、あるいは医師vs検察の図式は、極力避ける知恵があってもいいのではないかと思われます。医師も必ず患者になるときが来ます。より良い医療を望んでいる事に関しては共通だと思います。
torigoroさんの言われるように、この医療事故を教訓として「これからどうあるべきか」「どうすれば繰り返さないことができるか」といった展望は、一見すると結果責任追及論に近い議論の中から出てくるのはやむを得ないことでしょうね。説明責任も患者側の視線においても成される必要もありましょう。
是非ともこの件に関しては、公判の経過についても取材され、より望ましい世論形成のためにtorigoroさんには、言論人として大いに発言して欲しいと思っています。期待しております。乱文失礼しました。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060610#c1149939481
現場の医師の方々は声を今まで上げていなかったとおっしゃっていますが、聞こえてこなかっただけで実際は声を上げていらしたと思いますよ。今回は、インターネットという誰もが容易に声を上げられ、聞き取りやすくなった文明の利器があったから我々一般の国民にも聞こえたのだと思います。それに、医療の崩壊が始まっているのを一番よく知っているのは、医療現場にいる医師の方々で、だからこそより声が大きくなっているのだと思います。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060610#c1149946201
確かに厳密にいえばウソもありました。手術前には「大丈夫ですよ、安心して。」とだけ言ったのですから。患者さん側も「先生も一所懸命やってくれたんだから」と言ってくれました。そこにひとつの穏やかな「調和」があったことは事実と思います。もちろん良いばかりとは言いませんが。
そして私の感覚では、それを必要以上にあまりにズタズタにしてしまったのは、やはりマスコミだと思います。
今さらですが、特効薬がないわけではありません。医療がお役に立ったことをどんどんニュース、話題にすればそれだけで世の中は明るくなり、産科小児科などの希望者はどんどん増えます。そして訴えごとでは、患者側の理不尽な要求が通らなかった場合なども責任をもって報道するべきでしょう。(裁判所が正しい判断をしているかは別問題ですが。)
単純かもしれませんが、本当はマスコミの力でどうにでもなると思っています。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060611#c1150024714
世論や患者側だけが、過剰な権利意識で暴走しすぎてしまったのではないか、だからと医療側は防衛したり萎縮したりしているのだとまでは言いませんが、患者側同様、医師側がいかに報われない努力を時には一方的に強いられてきたかについても、御理解は頂きたいと思います。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060611#c1150027674
「医師を逮捕しても、医療の質の向上にはつながらない」と主張するなら、あなたがたがきちんと、中立公正に事故を調査・分析し、再発防止策を取れるという力量を見せなければならない。残念ながらわたしは、この事件の医師の方々の対応を見ているかぎり、医療事故への司法介入の流れは止めることができないと考えています。
「事故は避けられなかったのか」という問いかけは、裁判外の医療事故紛争処理システムや無過失補償制度の設立を視野においた問いかけなのです。それらを実現するためには、国民の支持が必要なのです。それを医師の方々が理解できないかぎり、医療事故への司法介入はやまないだろうとわたしは考えています。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060611#c1150030734
GDP比先進国最低の医療費、最低の労働者数で安全が確保されるわけがない。行政の無作為に対し、言葉をつぐみ、疲弊した現場を云々しても、枝葉末節では?

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060611#c1150030734
「医療事故がおきるのは医療従事者の根性論が足らんからだ」ということですね。
私は、現場にカネと人が足らんからだと思います。
公定価格の日本の医療保険制度では医療現場では、何の根本的な対処もできません。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060611#c1150031192
>なぜ、警察・検察がこれほどまでに医療事故に介入するようになったか。それはおそらく、医師まかせにしていては、中立公正な調査・分析、そして再発防止などできない
と考え始めたのは間違いなく国民でしょう。そして司法も究極は世論に迎合する傾向を持つ。民事での理不尽なぐらいの高額な損害賠償請求が認められ始めたのも、そのためでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060611#c1150032563
紛争処理システムや保障制度の設立があれば事故が避けられたのですか?
論理的におかしいでしょう。勿論無過失保障を医師に負担させようと言う解決法も間違っています。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060611#c1150033880
あなたは、腕の立つ品性のない医者と、品性のある未熟な医者とどちらに命を預けますか?品性を医者に求めること自体が医者に対する甘えなのです。(私自身はあなたに対しては品性がありませんし、謝罪をする理由も一切ありません)
医者に品性を求めるより、技術を求めるべきでしょう。品性は宗教家にでも求めればよいのです。

http://d.hatena.ne.jp/torigoro/20060611#c1150034646
そんな態度で医療問題に首を突っ込むな。こちは人生の全てをかけてるんだ。