自主交渉

arcturus2006-06-14

 
川本さんは、「第三者機関」を、ぜんぜん信用してなかったみたい
そりゃそうだよね…
 


水俣病誌』より。

【ささやかな自主交渉の闘い】
公害という言葉ほど、ゴマカシの最たるものはないと私は思っている。
私たちが住んでいる日本は、工業大国で経済先進国で、そしてこの地球に世の中の仕組みが、二通りしかないそうだが、そのなかの一つの仕組みである「資本主義」の国であるそうだ。ものの本によると、資本主義とは資本が経済上の中心勢力となり、無限に利益を求める社会制度とある。
七年有余も無理矢理に在任して、日本の四季折々の風物破壊と、人間社会の前奏曲のタクトを、メチャクチャに降りまわした前首相佐藤栄作の言によれば、「公害については自治体、企業者、一般国民のだれもが、ときに加害者であり、ときに被害者である。この認識によってみんな立ち上がり、経済のひずみを手を取りあって克服したい」のだそうだ。前首相佐藤栄作は、日本国が資本主義の国であることをお忘れじゃないのか。
無限に利益を求める社会制度のなかでのいわゆる公害は、経済のひずみであり、無限に利益を求める道程の道草だろうか。私は決して経済のひずみとか、道草ではないと思う。無限の利益を求める仕組みの世の中であってみれば、その利益を求めるものは、名も無き者が死のうと病を得ようと、毒物をタレ流そうと自然が壊れようと知ったことじゃないのだ。
この世の中に、無限の利益を求める極一握りのものと、それを無理矢理に支えさせられている一般民衆と労働者がいることは、紛れもない事実だ。無限の利益を求める仕組みを強力に支えるもののなかに、警察があり、行政があり、裁判所があり、他各種のゴマカシの機構や機関があるのも疑いのない事実だ。


私たちが諸所の映画「水俣」の上映会や、公害問題を話し合う会合に参加すると、よく聞かれるのが「水俣病問題をどう思っているのか」、そして「水俣病の闘い(自主交渉)に、方針なり、展望はあるのか」ということである。
この第一の問いに対して、私の見かじりと聞きかじりの知識や考え方に基づいて、「資本主義の過程から公害は必然である」と答えるのはやさしい。それよりも私は私なりの生活感覚に根付いた、水俣病問題のとらえ方を話したほうがしっくりする。チッソ水俣において、明治から現在にかけて、そして将来にかけて果たす役割とか、地域支配とかいうものを話してゆくなかから、水俣チッソが犯した罪業と自然破壊の道程が、日本において普遍的なものであることを知ってもらいたいと思う。第二の問いに対しては、第一の問いにも関連があるかも知れぬが、私の答えは決まっている。チッソに人間として、損なわれたものの償いを求めるという大方針のほかには、展望とか闘いの方針というものはないと言うしかない。方針とか展望とかがあるとすれば、それは現在続けられていく座り込みのなかから、方針と展望は見いだせてくると思っている。あとは一般大衆の支持と支援を待つほかはない。


ではなぜ座り込みをしながら自主交渉をしているのかと問われれば、私はいまの日本で言われているお上とか、最も公平とチッソが主張する第三者機関ほどあてにならないものはないと思っているからである。
水俣病患者・家族の圧殺の歴史はいまも繰り返し、何らかの手によって創造されつつある。
過去において、昭和34(1959)年12月に当時の熊本県知事を主体にして、見舞金契約を押しつけ、患者・家族を悲嘆と暗闇に落とし入れた犯人の存在を忘れない。また十有余年間も頬かむりを続け、水俣病患者を見殺しにしてきた政府、そしていわゆる一任派と称される水俣病患者・家族に有無を言わさず、水俣市と厚生省と御用学者がチッソと癒着して、押しつけた補償処理で処理された事実を1970年5月に目の当たりにした。かてて加えて、日本のエセ自由主義、馬鹿の一つ覚えの民主主義の諸権利を守ってくれるはずの裁判で、新潟の水俣病患者は葬り去られた。
なんと見事な、そして鮮やかな人間屠殺劇だろうか。
熊本水俣病患者の一任派と中公審派(調停派)に、無理にアメとムチで繋がれた人々を語るのはやさしい。また新潟の患者さんたちが、不治の病と再起不能の体にさせられた償いを、闘いの拠り所として決着を願った裁判所は、なんの償いを昭電に命じたか。判決は体を切り刻み、断腸の想いを切り刻み、人の命と健康の値段を切り刻んだ。私たちは昨年11月1日から、チッソ水俣工場正門前において、座り込みを始めた。その日チッソは、たとえ10万円でも払えませんとうそぶいた。それは過去と将来にわたり傷つけられ、破壊された暮らしと健康と生殺しの代償として一律3000万円と要求した切実な願いに対する答えだった。
加害者と被害者が、相対で償いについて話し合うというのは、事の始まりの常識であり原則ではないのか。チッソはお上(県知事、厚生大臣)一任の味をしめて、今度もお上が作って与えてくれた中央公害審査委員会が、世の中でいちばん公平なところですから任せましょうと無理に押しつけた。中公審の由来はチッソが味をしめた、補償処理委員会(別名千種委員会)をモデルにして創設されたのだ。悪名高い千種委員会の補償処理をモロに被って、処理され呻吟している存在を、私たちにまで、いな全国の被害者までも、今度は中公審の名によって再現しようと企んだのだ。


チッソ王国水俣、殿様企業チッソ城下町の水俣で、水俣病患者の必死の抵抗と物言いが昨年の11月1日から、座り込みという形で始まった。この座り込みは水俣病患者にとっては、二回目であった。始めはまったく孤立無援のなかで、寒風吹きすさぶ1959年12月に同じくチッソ水俣工場正門前にて、当時の水俣市民と労働者から見れば無謀と思える、座り込みが約1ヶ月続けられた。
私たちの座り込みは、言わば二度目の、水俣市民とチッソが操作する世論と殿様チッソに対する謀反であった。案にたがわず謀反者天誅とばかり、脅しのハガキ、石を投げつけるなどして突っかかってきた。またチッソの息のかかった連中が、金と暇に任せて作った、日本の公害の歴史に残りそうな、迷文のアジビラ水俣全市にばらまいた。いわゆる水俣を暗くする奴等は出てゆけ、腐った魚を喰った連中だけがニセ水俣病を装っているのだ、水俣に特急が止まるのもチッソのお陰だ等々。
私たちも黙ってはいなかった。迷文の発起人たちを訪ねて真意を聞いた。皆逃げまわった。ある者たちは田中総理もド肝を抜くような結構づくめの、水俣病対策を書いて答えとした。
私たちの必死の反撃に、水俣市民は鼻白んだ。
水俣チッソにとって、水俣病患者をネジ伏せるには恰好の場所である。誰かの言葉ではないが、水俣病は九州の片隅で起こった一地域の事件である。現在のように世界のミナマタビョウ、日本の水俣病であってもらいたくないのは、なにも一部水俣市民や政府だけではなく、チッソにとっても不都合なのだ。
私たちは長征の旅に出た。乞食の旅に出た。昨年の12月5日、住みなれた我が家と故郷を後にした。それも一口に言えば、居辛く、言い辛く、やり辛く、モロモロに辛かった。この水俣病患者・家族なるが故の顛末を、チッソ社長と東京から流されるであろう事情と情報を全国の人々に知ってもらいたかった。
幸いにして、全国の水俣病を告発する会の方々と、苦楽を共にすることができた。またチッソ本社内から本社前にと座り込みは引き継がれ、闘いは継続されたが、時を経るとともに全国から、都内からと支援のコダマは高まっていた。
2月になり、正義の味方月光仮面と、もてはやされた大石環境庁長官が、火中の栗を拾う覚悟で、私たちとチッソとの話し合いをとりもった。
しかし、立役者は他にいた。それは現熊本県知事だった。話し合いが進むなかで、大石長官はうまく脇役に変身していった。大石長官には当初「チッソ環境庁長官と県知事を利用したり、ダシに使ったり、アクセサリーに使うようであれば、この自主交渉の話し合いは断る」と言ったにもかかわらず、最期まで大石長官には「利用とダシ」の意が通じなかった。
いわゆる自主交渉が始まったが、チッソは徹底的な引き伸ばし作戦で、私たちの孤立化を策している。


私たちの東京での座り込みは八ヶ月を迎えるが、今までの自分たちの至らなさと不勉強を思い知った。と同時に田舎とはちがった新しい人間との深みを知り、喜んだ。
私たちは、あくまでも「座り込みを続ける」と言いたいがこれもやはり人の情けにすがらなければ、到底果たすことはできない。座り込みのテントから人間の尊さと自然の恵みの有難さを訴え叫び続けていこうと思う。そしていまの日本という世の中の仕組みが、誰かにうまく、都合よく組み立てられていることを知り、それを支えている柱を一本でも引き倒し得ないものかとも思う。
過去も未来も私たちを翻弄し、虐げる者たちが、最近はうまく取り繕っているサマを、見抜かなければならない。窮鼠猫を咬むということを知らしめなければならない。そして人間ここにありの闘いの狼煙を、数多く各々の地で打ち上げることによって、それがいつかは燎原の火になることを願うものである。
私たちの小人数たった12人からなる闘いが、かくも全国からの支持のもとに闘い続けられようとは、夢想だにしなかった。
私たちは可能な限り、試行錯誤を繰り返しながら、座り込みを続け本当のケンカを続けて行きたい。(1972年9月『月刊地域紛争』)