下下戦記

 
読みました。

下下戦記 (文春文庫)想像力を奪うには出会いを与えなければいい。
子どもや若者の生活、果てはサラリーマンの生活に至るまで、彼らは出会いを与えられない環境で生きている。
 
普通に生活できない体(NOW>HERE 〜今、此処にあり〜)

 
私は出会っていないので、自分の甘さを嘆いたら叱られるだけですね
「のぼすんなっ」ち。
 

きのうほんとにかんがえたこと
あ〜、あだちゃ、仕事ば、ち、ちたいの。患者ぢゃんのウチば、ま、廻りだあい……の。お、本当は、あだち、さび、寂ちい。寝っ寝っ、寝だっぎりの人、もっと寂ちい。友あちならんば、そげん人と。あ、あン持田の、ひとみぢゃんなんが、自分で思どるごとば言いならんだろ。眼も見えんち、口っ口っ、口いもきげん。持田のおばぢゃん、とっでも、とっとっ、とっでもきづいみだい。重いあろ、もう大ぢくなっでえ。
あ、あだちゃ、なんか、為になりたいの。ちえんちゃ廻ってされぐどお。ち、ちえんじゃ、わかあん。ダッダメよ。ダメ。あだちは、ち、ちがうどよね。あっぱりたい、同じ病気ぃひどおならば、わかあんとよね。あだちゃ、わかるち思だよね話ち相手になれっどよね。お、本当のお、寂ぢかもんの友あぢなりだいっ。
あだち、本当、ぎのう初めてわがったお。あ、あだちゃ、とっでも、な、なんがとっでも恵まれとるぢ。あたちゃ自分でおはん食べちるでちょ。ひ、ひどみぢゃんなんが、寝えっ、寝えったまま食べさちてもらわんばんでちょ。外に歩いでも行かぎらん。そ、そでで、あ〜、そでで、恵まれどるあ、あだち、今、ぶらぁぶら遊そどっぢゃ、イカンぢ。そげんとばしおったっちゃ、ダメち思できたよ。自分に甘えどるち思てきたよ、みんなにも。ち、ちえんちゃ、いづまで水俣おるがわがらんどお。親っち、親っち、いづまででン生ぎぢゃおらんどお。ど、どうちぇ、どうちぇ、あだち達ばっかで生ぎてゆかんばんどお。そでで、あどからダメになるみーだいで、今、べ、勉強ちたいの。そちて、あどからはたい、みんな一緒におなじウチで暮らざんばダメち思できたよ。
あたちゃ、なんか一人でちてみたいの。三千子ぢゃんのゆーたおね。あたちと二人でおてちだいちればあ、「どっても素敵だな」ち。げ、元気かもんのたい、若かもんのたい、今がんばらんばたい、今生きておかんばたい。あたちゃ、今度十八になっとやっで。

 
「人の為になりたいの」
晶子の胸にポッと芽生えた悲願花、ひとみの髪に挿しに行く。骨と皮、身体はくの字に曲がったまま、白目を剥いて息づいている十八娘の髪の毛に挿しに行く……。
「いっつも、晶ちゃんな、道で会うて声掛けたっちゃ振り向きもせんたっで。今日はなんば考えてごらったじゃいよ(笑)」ひとみの喉につまった痰唾をキュッキュッと手際よく吸引器で吸い取りながら、持田のおばさんははぐらかすように笑いとばした。
「晶ちゃんは良かもんねえ。なんでンでくっだろで。こげ〜んしてひとのウチまで押しかけて来なるわけやっで。考えるしこは、できったろわい。吉田さんがごつ良かにせどんば、いっつも家来ンごてして連れ歩いてなあ(笑)、感心するばい。うちンひとみは、お人形さんやもね。寝たっきりで、飯も自分じゃ食わ得んとやもん。ねっ、ひとみ、『はいっ』ち言わんか、『はいっ』ち(笑)。あれーっ、今日はひとみも機嫌の悪るして、吠きもせんとね。誰っでん人の来れば喜んで吠くとやってんか……。ねえ、ひとみ、晶ちゃんな、良か事づくめよね」
公害の見世物なって、何百回。テレビやマスコミの眼にさらされて……。しかし、もう裁判は終わったじゃろが。これ以上ひとみを世間様の関心をひきつけるためのダシに使わんでおってくれ。持田のおばちゃんの想いは、喉元まで出かかっている。それを、今更なんば血迷うてか、わざわざ同い年の、同じ胎児性の晶子がやってきて、ひとみの苦しみわかるだと、手助けするだと、のぼすんなっ。私と父ちゃんが二十二の歳から十八年、ひとみを生かすために、肺炎起こさぬよう風邪ひっちかぬよう、床ヅレなきよう、死なぬよう、どげん苦労ばしてきたな。
父ちゃんな、チッソの下請けで、徹夜徹夜の連直で、一ヶ月に八十五日分の日給ばとりおったで。一週間に十日働かんば、親子九人飢死にやった……。ひとみ十八年抱きかかえて生きてきたばってんか、ああ〜ねえ、晶子がしこ歩きなったら、晶子がしこしゃべりなったらて思わん日の一日でンあったかな。たった一言、「母ちゃん」て言う、そん一言ひとみから聞けんまんま……。
人にゃ言わん私の口惜しさ、胎児性のままごと遊びと一緒にして馬鹿ンするか。あ〜、ひとみの寂しかろう、あ〜、話し相手も欲しかろて、胎児性の子どんにまで世話焼かせようちゃ思わんじゃったよ。なさけンのうして、涙の出る。ぬしこそ半端な役せん身体でおって、母ちゃんうっ死ねば、わが食う道はどげんするかな。他人のこつよか、わがこつば心配せいっ。
笑ってる持田のおばさんの身体中からは、そんなふうに確固とした拒否が伝わってくるのだった。
晶子は、ベッドの上のひとみの髪の毛に指を伸ばしたまま、撃たれたように身体をこわばらせていた。髪をなでてやろうとする、その曲がった指は、空中に停止して震え迷った。おばさんと晶子、私の間に張りつめた沈黙がただよい、ようやく緊迫に耐え切れぬ指がひとみの髪の上に落ちた。途端、晶子の眼にジワッと涙が湧きあがり、唇がわななき押しつぶされた声が小さくもれた。「ひ、ひ、ひどみぢゃん……」ひとみは天井のあらぬ方に眼を剥いたまま、かすかにうなり続けた。しかし、それが晶子の指の震えに応えるための声であったかどうかは、おばさんにも、晶子と私にも確かめる術がなかった。
諌山孝子、浦田幸子、持田ひとみ、三人の寝たきり胎児性の娘達。その枕元に坐る事ができただけで、晶子の保健婦志望は止んだ。

 
ほとんどみなが病者という部落に、水俣病の子として落ちてきて
役せん身体で
幾重にも幾重にも差別に巻かれた下の下の世界に、ひとを乞うて…