廃村

arcturus2006-07-08

 
谷中村滅亡史(とむ丸の夢)
拝見しました。
 
宇井さんは「公害には第三者はいない」といいます。

紛争の当事者以外のものでも、次に同じような公害が起これば必ず被害者か加害者になる。その意味で国民全体が潜在的な当事者である。第三者を名乗るものは必ずといってよいほど加害者の代弁をしてきた。真に公正な人間は、おのれの口から公正と名乗ることはない。

谷中村て、関西訴訟のことを知るまでぜんぜん関心なかったし、いまもよく知らないです…
自分がどこに立っているかを考えることもなかった。
50年経っても、まだ私が水俣病の加害者であり続けていることも。

公害に対して、運動に現われた住民の反応はどうか。公害の歴史を調べてみると、第一に気づくことは、意外なことに、国家統制が明治憲法で規定されていた戦前に、企業側が譲歩した典型的な例が多い。これは深刻な例しか記録が残っていないことと、住民の中で金と時間のある地主層が中心になった特殊な事情もある。しかし、住民側が交渉と対策を国、県、市町村の各自治体を同列において要求し、合わせて原因企業にぶつかる対等交渉型の運動をとるときは、勝負が互角になることが多い。これに対し、住民の意識のなかに、国→県→市町村という公権力の上下の順列があり、対策をこの順に上へ持ち上げてゆく陳情型の運動では、例外なく住民側が負けている。これはむしろ戦後に多い型である。ある時期の足尾、日立、荒田川、本州製紙江戸川事件、三島・沼津、新潟水俣病などが前者の例であり、熊本水俣病イタイイタイ病、数多くの補償金紛争が後者にあてはまる。
戦後の自治制度では、名目上、国、県、市町村は対等の自治体で、代表選挙、税の取立てなど別々に行われる。初等教育や清掃など住民生活に身近な問題では、市町村はむしろ基本自治体として重い責任を担っている。公害も住民生活に直接かかわる問題の1つで、身近なところで対策を立て、実行するのが本筋なのである。一見理想主義的にみえる対等交渉型がしばしば住民に利益をもたらし、三割自治の現実に追随した陳情型が必ず住民の敗北と妥協に終わる経験的法則は、実は自治の原則と結びついている。私はこれを縦が横かの法則と呼ぶことにしている。


『公害の政治学水俣病を追って―』宇井純(1968)

 

えい、全コピペ。毎日新聞連載『鉱毒に消えた谷中:廃村100年』

鉱毒に消えた谷中:廃村100年/1 現代への教訓/栃木(2006.7.2)
 
◇公害は自分の使命−−被害者の立場から追及
「公害問題を扱う私が、先祖が公害の犠牲になった谷中村の出身だと知らなかった。うかつだった。さんざん、悔やまれた」水俣病をはじめ、さまざまな公害問題の最前線に居続けた、宇井純・沖縄大名誉教授(74)=衛生工学、環境科学=は、「日本の公害問題の原点」と言われる足尾鉱毒事件で、多大な犠牲を被った旧谷中村の子孫だ。
周囲は宇井さんを「反骨の環境学者」と呼ぶ。が、自身が谷中の子孫と知ったのは、30代半ばのことだ。
  ◇    ◇
東大助手時代だった。早くに亡くなった父方の祖母が、かつて谷中から茨城県古河市に移住した事実を、初めて親類に知らされた。宇井さんは当時、熊本県水俣市に乗り込んでいた。同市のチッソ水俣工場が垂れ流す有機水銀で、人々に甚大な被害が出ていた。原因を隠ぺいしようとする企業や県、国の体質を目の当たりにし、水銀原因説を追っていた。東大を卒業後、旧古河財閥系の化学会社に3年間勤務、水銀を扱ったという自責の念があった。
谷中の子孫で、水俣病に取り組むのは、自分だけと知る。同時に「公害問題は、自らに課せられた使命でありテーマだと悟った」と言う。だから足尾鉱毒事件は、東大で15年間続くことになる自主講座「公害原論」の柱になっていく。
宇井さんは熊本、新潟、アジアなど、公害の現場や国際会議を飛び回っては、被害者の立場から企業や行政の責任を追及した。多くの学者が「御用学者」に成り下がっていると厳しく批判し、繰り返される公害問題の本質に切り込んできた。
宇井さんは多忙な中、遊水地内の谷中村跡を度々訪れた。自身を奮い立たせるためだ。村跡には旧村民の墓石がおよそ10柱残り、傍らの連絡箱の中には、今も「谷中村連絡ノート」1冊が置かれる。
《遺跡を守る会のお骨折りに感謝します。折にふれて参ってはおります。記帳するのは初めてです。遺民の子孫の一人。宇井純》初めて書き込んだ。00年8月19日だった。
谷中廃村100年の今年は、宇井さんが研究者として生涯をささげた、水俣病公式発見50年の節目でもある。「何もせずに、100年もたってしまったのかという印象だ」と、宇井さんは悔いる。「足尾鉱毒事件をほったらかしにしたから、水俣が起きたのだ。行政が事象に向き合わず、問題を先送りする体質は、今も変わらない。鉱毒事件はいまだ生きている」。語気は鋭い。
86年、沖縄大に新天地を求めた宇井さんは03年、同大も退職、名誉教授になった。昨秋、心臓バイパス手術で入院。現在は都内の自宅で、闘病する。
   ◇
7月1日。足尾鉱毒事件で旧谷中村が1906(明治39)年に廃村となってから、100年を数えた。1世紀を経てなお、谷中廃村と足尾鉱毒事件は、私たちに何かを訴え、影響を及ぼし続ける。現代に垣間見える、廃村の「教え」を探った。

鉱毒に消えた谷中:廃村100年/2 現代への教訓 新潟で知った原点 /栃木(2006.7.3)
 
◇変わらぬ水俣和解文
新潟水俣病第1次訴訟の弁護団幹事長を務めた坂東克彦さん(73)は、公害資料を二つ、指差した。「こっちが、足尾鉱毒事件。古河(鉱業)と被害民の示談書。これは新潟水俣病の和解文。文書の内容に違いはありますか?」。資料は、94年から講師として教壇に立つ、新潟大で使っているものだ。
坂東さんは64年、新潟県阿賀野川下流域で、熊本水俣病に酷似した有機水銀中毒症状が出ていたことを知った。手足が震え、精神錯乱で暴れる体を縛られる患者。狂った猫は、民家の漆喰壁を突き破り血まみれになった。大量の魚は土手に飛び出し、干上がった。前年、郷里の新潟に戻り、開業したばかり。知人に弁護団参加を打診され、即断した。
67年6月、新潟水俣病訴訟が起こされた。富山のイタイイタイ病など4大公害事件で最初のケース。坂東さんは弁護団の幹事長に就任し、重責がのしかかる。が、患者たちは差別や偏見を恐れ、国への異議申し立てに及び腰だった。患者の一人、原告団に加わった近ヨシさん(83)は振り返る。「地元には『お上に盾突くな』と言い残した江戸時代の義民の言葉が伝わっていた。批判されるのを恐れた患者が多かった」
板東さんは、歯がゆい思いで日々を過ごす中、足尾鉱毒事件で谷中村民の救済に奔走した弁護士・中村秋三郎を知る。村民の移住をめぐる裁判などを無報酬で引き受け、田中正造を側面から支援した。「公害問題に先鞭をつけた」と思っていた新潟水俣病訴訟。ところが、60年も昔の公害事件で、数多くの弁護士たちが既に、被害者のため身を粉にして働いていた。「こんな偉大な先輩たちがいたのに、くじけちゃならんって勇気付けられた」。板東さんは話す。
71年9月、新潟地裁は「熊本水俣病の原因が工場排水であることを知っていたにもかかわらず、排水を阿賀野川に排出した」として、昭和電工側の加害責任を認め、約2億7000万円の賠償を命じた。原告の全面勝訴だった。
坂東さんは翌年、患者たちと「新潟水俣病学校」を設立した。足尾鉱毒のさまざまな文献資料を読み解くことで、本格的に学ぼうと思った。帝国議会で「衛生面、結婚差別、風評被害などから被害民には被害を隠す事情がある」と指摘した正造の言葉。政府・企業の買収工作や懐柔策で分裂する、谷中村民の悲劇。変わらぬ構図に、自分たちが経験した「公害の原点」を見いだした。
88年10月「修学旅行」と称して、念願だった足尾銅山や谷中村跡を巡った。患者たちは、茶色くむき出した足尾の山肌に言葉を失った。
  ◇  ◇
板東さんの新潟大の講義は今も、足尾鉱毒事件を初回に触れる。そこで必ず指摘することがある。鉱毒事件で、企業や行政の責任をあいまいにした「見舞い」という名の示談金。水俣病訴訟で「賠償」を「救済」にすりかえた和解文。その共通性だ。板東さんは、この100年で行政側の姿勢は「何の変化も、進歩もなかった」と指摘する。鉱毒事件を「公害の原点」と認識することで、初めて水俣病の問題点が洗い出される。板東さんは、そう考えている。

鉱毒に消えた谷中:廃村100年/3 現代への教訓 あいまいな行政責任/栃木(2006.7.4)
 
◇次世代に本質託す
新潟水俣病の原因となった、旧昭和電工鹿瀬工場の門前(新潟県阿賀町)には、無造作に並ぶ数十の墓石が残る。長年の降雪で倒れた物もあり、寂寥感が漂う。墓は、同工場の北隣にあった古河鉱業草倉銅山」で働いた鉱員たちのものと伝わる。草倉は古河財閥の発祥地。ここの収益を土台に足尾銅山の経営にも着手し、足尾が軌道に乗る1885(明治18)年ごろまで、古河の屋台骨を支えた。足尾鉱毒の問題化もほぼ、このころだ。
古河は鹿瀬でも、精錬所の煙害で地元住民と係争になった。明治21年の示談書は「鉱山之儀ハ国益ヲ起シ一大事業ニ付(中略)自今村方ニ於テ尽力スベキ」と記す。煙害で見舞金を払いながらも、銅山は国益であり、村は文句を言うべきではない、との内容だ。
弁護士の坂東克彦さん(73)は、第1次訴訟に続き1982年6月、新潟水俣病第2次訴訟の弁護団長に就任していた。足尾鉱毒事件を調べる過程で知った、この示談書に注目した。第2次訴訟では、企業責任に加え新たに、国の過失と監督責任の追及も目指していたからだ。「草倉、足尾以来、国益や経済発展の名の下で、行政は企業の側で被害者を切り捨ててきた。同じ過ちを繰り返さないためには行政責任を問うしかない」。我が意を得た思いだった。
しかし、新潟地裁判決(92年)は国の責任を否定。訴訟は東京高裁に持ち込まれた。ところが94年6月、村山富市社会党党首擁する連立政権の誕生で状況が一変する。同政権は、政府案での和解を患者側に迫った。「生きているうちに、救済金をもらいたい」。患者の声は切実だった。弁護団は、和解受け入れに大きく傾いた。坂東さんは「裁判を続けてきたのはお金だけではなく、行政責任によって自分たちが水俣病になった、という身の証しを立てるため。賠償を『救済金』と称するのでは、100年前の足尾鉱毒事件と変わらない」と訴えた。
「村山内閣を逃せば、解決は100年先になる」「熊本水俣病が解決したら、新潟は取り残される」。坂東さんは、他の弁護士から厳しい批判を浴びた。「あいつは、田中正造のような実りのない闘いをしている」。そう、あざける者もいた。坂東さんは弁護団から身を引く決意をした。
公害裁判をめぐっては、一昨年10月、熊本水俣病の関西在住の患者たちが起こした訴訟で、最高裁が国、県の行政責任を認める画期的な判決を下した。それだけに、坂東さんは「患者の気持ちも分かる。それでも(新潟水俣病)の和解案には、譲歩できなかった」。今でも信じている。
  ◇  ◇
坂東さんは現在、新潟大で自身の経験を教える一方、95年に新設された新潟県立「新潟水俣病資料館」に自身所蔵の裁判資料など1000点以上を寄付している。中には、足尾鉱毒事件をめぐる膨大な文献も含まれる。同館の岩崎浩学芸員は「今後、時代をまたがる公害資料の文庫として何とか公開したい」と意気込む。
板東さんは言った。「公害の本質に向き合う作業は、次世代に託してしまった。だが、まだやれることは私にもある」

鉱毒に消えた谷中:廃村100年/4 現代への教訓 50年埋もれた土呂久/栃木(2006.7.5)
 
◇正造の教えアジアで実践
「土呂久に田中正造はいなかった。それに、山間の小さな集落だったからね」
1971年11月、宮崎県高千穂町。集落・土呂久は当時、人口250人ほど。ひっそりと農家が山あいに軒を連ねていた。住民のヒ素中毒発症は、町の小学校教諭の調査で判明する。「土呂久鉱毒事件」の発覚。土呂久で今も事件を語り継ぐ、佐藤慎市さん(53)は発覚の遅れについて、淡々と説明した。
土呂久の被害は、約50年も埋もれたままだった。殺虫剤などに使う亜ヒ酸を製造する鉱山が、集落で操業を本格化させたのは20(大正9)年。硫ヒ鉄鉱を焼く窯が出す煙、排水がヒ素を含んだ。発覚時はしかも、閉山後10年を経ていた。住民への被害が疑われた直後に社会問題化した、足尾鉱毒とあまりに対照的だ。
土呂久では、窯の煙で周囲の植物が立ち枯れた。茶に染まった狭い谷あいを、住民は「焼き谷」と呼んだ。それでも人は住み続けた。30年代、鉱山そばの一家6人がヒ素中毒で次々と死んだ。目や鼻こうがただれ、肝臓がはれる。吐血した。10代の若者でも発症した。
71年当時、朝日新聞記者として土呂久を訪れた川原一之さん(59)は、惨状に「ミニ足尾鉱毒事件」と思った。学生時代に読んだ、谷中廃村の書物が頭をよぎった。ただし、渡良瀬川全域に被害を出した足尾鉱毒と違い、そこは小さな地域に被害を濃縮していた。
75年12月、患者は鉱山最後の経営者、住友金属鉱山を相手に訴えを起こす。1審、2審とも勝訴したが88年9月、住友側は最高裁に上告。抗議のため患者や支援者約200人は、東京・新橋の住友金属本社前で8週間に及ぶ座り込みに突入した。75年に退職、訴訟支援を続けていた川原さんは「押し出し」の現代版、と呼ぶ。足尾鉱毒の被害民が明治期、敢行した戦術だ。原告団は座り込みの一方、時間を見つけては足尾や谷中村跡も巡り、自らを奮い立たせた。
訴訟は90年10月、企業責任を問わないまま「和解」という結末を迎える。原告患者41人中23人が死亡していた。患者の今後を考えれば、裁判の継続は非現実的だった。
「裁判に長い年月がかかるのがそもそも問題なんだ」。原告の一人でもあった佐藤さんは、今でも悔しさを忘れない。が、思いを振り払うように言う。「『押し出し』ではいろいろな人が支えてくれた。決して孤立していないと勇気付けられた。交流は今も続く。収穫はあった」
 ◇  ◇
「土呂久という狭い村にこだわりつづけた結果、突然、視界が開けた」。土呂久を離れた川原さんは、アジア各地のヒ素公害を知った。タイ、インド、中国、バングラデシュの鉱山などでは「土呂久」が日常だった。94年、支援組織「アジア砒素ネットワーク」(宮崎市)を設立。土呂久の経験を、アジアに伝えようと取り組む。
異国で川原さんが肝に銘じることがある。「住民こそ解決の主体」。谷中で鉱毒に耐え、たくましく生きる村民を見、田中正造は「自らが村民に教え、啓蒙(けいもう)する立場なのではなく、逆に住民に教えられる立場なのだ」と言い遺(のこ)した。「土呂久学校でも同じことを学んだ。この言葉はアジアで守り続けている」。川原さんは話した。

鉱毒に消えた谷中:廃村100年/5 現代への教訓 熊本に二つの悲劇/栃木(2006.7.6)
 
◇思想的限界も課題に
「このようなことをする者は、天の怒りに触れて子々孫々までらい病(ハンセン病)にかかるぞ−−」
田中正造は1907(明治40)年、谷中村に強制撤去で訪れた作業員に、罵声を浴びせたという。
ハンセン病は当時、神仏の罰による「業病」と信じられていた。「人権派だった正造でも、ハンセン病差別意識を持っていた。差別問題の根深さがよく分かる」。正造研究家、熊本大文学部の小松裕教授(51)は指摘する。熊本県には、ハンセン病最大の入所者を数えた「国立療養所菊池恵楓園」がある。患者は長く、子孫を残すことが禁じられ、妊婦は中絶を強いられた。今日も、元入所者への宿泊拒否など差別は残る。
小松教授は昨年5月、元患者や市民と「ハンセン病市民学会」をスタートさせた。病への偏見を少しでもなくすのが目的だ。「正造の思想的限界は、世紀を経ても私たちに突き付けられている。どう乗り越えるかが、我々に課せられている」。小松教授は話す。
  ◇  ◇
水俣病研究の第一人者で医師、原田正純熊本学園大教授(72)は、02年、新しい試み「水俣学」の講義を始めた。
原田さんは、1956年に公式確認された熊本水俣病で、有機水銀が母体を通じ胎児に蓄積することを発見。熊大時代から、患者側の視点で原因究明に取り組んできた。「水俣学」講義は水俣病の解明に、医学や化学など従来の専門分野に加え、人間の生き様や社会システム、経済事情など、多角的な視点を反映させるという構想だ。原田さんはその内容を練っていたころ、正造が100年も前に「谷中学」を提唱していたと知る。
正造は、谷中が強制破壊された07年、村民を教え導くのではなく、村民から聴き学ぶ姿勢と、弱者側に立脚した学問の重要性を訴えていた。「先にやられた」。原田さんは思った。しかし同時に強く共感した、という。
「従来の水俣研究はまさに『略奪型』。多くの医師が水俣で博士号を取りながら、住民や患者に還元してこなかった。水俣病の本当の専門家は住民であり、医師はあくまで住民から学ぶ。『谷中学』から学ぶ点は多い」
原田さんは80年代半ば、初めて足尾鉱毒と出合った。熊大医学部の助教授時代。「公害の原点」で、有名な事件にもかかわらず、被害実態のあいまいさに疑問を抱く。1899年の栃木群馬鉱毒事務所の記録によると、被害地では1000人以上の死者、乳幼児の高い死亡率が報告されるが、正確なデータはない。医学論文を読みあさった。が、当時の調査が、純粋な銅成分ばかりに焦点を当てた、不十分なものだと知った。銅山は銅だけ産出するのではない。「カドミウムや鉛など、他の有害物質も産出される複合汚染」のはずだ。政府主導の調査そのものが、健康被害を隠ぺいする意図を持った工作だったのではないか。原田さんは疑いを抱いた。
足尾鉱毒事件の被害は結局、後世に教訓として生かされることはなく、水俣の悲劇を呼ぶ。それを原田さんは悔しく思う。「正造が『非命の死者』と呼んだ被害民の犠牲は、時代と状況が違っても、水俣病患者にとり示唆するものは多い」正造の思想的限界ものみ込んで、原田さんの「水俣学」は「谷中学」に後押しされている。

鉱毒に消えた谷中:廃村100年/6 現代への教訓 正しかった「おじやん」/栃木(2006.7.7)
 
◇長年耐えた正造本家
居間に、立派な田中正造の遺影が飾られている。珍しい、若いころの写真もある。佐野市小中町の農業、田中栄さん(68)は、正造の本家筋にあたる。田中本家は1901(明治34)年12月、正造による明治天皇への直訴事件以降、時代に翻ろうされ、ひっそり暮らしてきた。「『おじやん』は一体、何をやったんだろう?」。幼時、栄さんは幾度も不思議に思ったという。
正造は、栄さんの曽祖父の弟・富蔵の長男だ。1890年、正造は栃木県議から帝国議会衆院選挙で初当選、国会議員に。田中家の誇りだった。しかし、甚大な被害が明るみになり始めた足尾鉱毒事件を議会で糾弾。天皇直訴に及ぶと一転、「罪人」となった。
栄さんの祖父・正次郎や父・正治さんの兄弟は皆、正造と縁を切るため、小中を離れた。連絡も取れなくなった。「罪人の親類」。世間の視線を恐れ、雲散霧消した。「だから、うちには親せきらしい親せきがほとんどいなかった」と、栄さんは言う。鉱毒救済の資金捻出のため、抵当に入れられた本家の邸宅は没収。転居を余儀なくされた。地主として持っていた土地も、ほとんど失った。
正造が亡くなる直前、1913年の夏だった。正造が本家に姿を現し、栄さんの祖母に詫びたのだという。「本家、本当にすまない。でも、わしは渡良瀬川に昔のように稲が育つようになってから死にたい」。異を唱える者は、家族にいなかった。結局、江戸期から小中村の名主を歴代務めた田中家は没落。第二次大戦中は、反政府的と目され、常に憲兵の監視付きだった。戦後、正造や鉱毒事件に関する文献を自由に読めるようになった。栄さんは、初めて「おじやん」の功績を知る。並行するかのように、戦前は「国賊」だった正造が、高度成長期に「聖人」に祭り上げられていく。中には、正造の良い面ばかりを「つまみぐい」し、極端な政治活動に利用する者もいた。分裂した評価に、栄さんは「おじやん」が別の人間になってしまったと感じた。いつしか、正造について口を閉ざすようになった。
「おじやん」について、平静に語れるようになったのはここ数年のことだ。
   ◇  ◇
栄さんは長年、気掛かりなことがあった。正造が最期を迎えた、佐野市下羽田の庭田家だった。「庭田家は死に際、1カ月もかくまってくれた。本来、田中家がやらなければならなかったこと。庭田さんにだけは、お礼がしたかった」
今年、正造が生涯をささげた谷中村の廃村から100年。この節目を逃せば、もう機会が訪れない気がした。3月、初めて庭田家を訪れ、丁重にお礼をした。当主、庭田隆次さん(72)は「田中さんが死に場所に選んでくれたことを、誇りに思ってます」と返した。
栄さんは、田中家が背負う荷が降りた気がした。その足で訪れた谷中の村跡で、語りかけた。「いろいろとつらかったけど、おじやんは間違ってなかったよ。おじやん、本当に良くやったな。頑張ったな」。晴れ晴れとした気分だった。本家を翻ろうした「おじやん」への思いを、栄さんは長年、胸にしまってきた。今は、敬遠してきた谷中廃村をめぐる行事などに、顔を出してみようかと考えている。

鉱毒に消えた谷中:廃村100年/7止 現代への教訓 ぜんそくを治したい/栃木(2006/7/8)
 
◇兄の遺志継ぐ小児科医
ヨシ原に囲まれた旧谷中村跡の真ん中に、えんじ色の谷中村連絡箱がある。中には1冊の連絡ノートがあり、訪問者は自由に感想を記すことが出来る。「僕も公害患者の一人です。公害問題と田中正造に興味を持っています」。1985年8月、当時、ノートの前身だった伝言板には、こんな書き込みがあった。書き込みの主、東京都江戸川区の中学1年、若林和久君は、車の排ガスや工場の排煙による大気汚染でぜんそくを患い、公害病認定を受けていた。当時12歳。「将来は小児科医になり、ぜんそくの子供を治したい」と、夢を語っていた。
「公害の原点」と呼ばれた、足尾鉱毒事件にも自然と興味を抱いた。渡良瀬川沿岸や谷中村跡を巡り歩いた。鉱毒事件のリポート作成も思い立った。しかし、ぜんそくが突然悪化し、入院。同年10月6日、そのまま息を引き取った。伝言板の書き込みから、たった2カ月後だった。リポート完成と小児科医の夢は潰えた。病床の傍らに、当時小2の弟がいた。彼もぜんそくに苦しんでいた。泣きじゃくりながら誓った。「ぼく、お兄ちゃんの代わりに医者になる」
  ◇  ◇
21年が過ぎた。
多忙な日々を送る、若い小児科医が東京北社会保険病院(東京都北区赤羽台)にいる。若林健二さん(28)は、兄の遺志を継ぎ、医療の最前線で奮闘する。
高校時代、化学の道に進もうかと悩んだこともあった。しかし、医師を選んだ。「やはり、兄との誓いに後押しされた」と笑う。02年に大学を卒業。研修医として経験を積み、常勤の小児科医となって3年目。医学部進学、国家試験の合格など、節目は兄の墓前に報告してきた。
職場は「野戦病院」と呼ぶにふさわしい。24時間体制の救急病院。健二さんは、1日約70人を診察する。当直の夜は急患がひっきりなしで、一睡も出来ない。連続36時間、治療に走り回ったこともある。大半は、発作に苦しむぜんそくの子供たちだ。「ぜんそくで兄を亡くしたこともあり、周囲の人には『小児科医なんて、精神的に大丈夫か』と危ぶむ声もあった。でも、大きなやりがいを感じている」。健二さんの言葉には自信があふれる。
小児ぜんそくは増えるばかりだ、と言う。昼夜を問わない発作。親の経済的、時間的、精神的負担は大きい。健二さんも完治はしておらず、今でも時折、発作に悩まされる。「ぜんそくの原因は大気汚染がすべてではない。けれど、『日本が公害を克服した国』なんて宣伝はウソ。これだけ多くの子供が苦しんでいるんですから」
ぜんそくだけでなく、アレルギーなど子供の病の治療法を見付けたい」。健二さんは将来的に、臨床と両立させ、小児医療の研究に取り組みたいと思っている。そして、医師の卵である学生たちを連れて、谷中村跡を訪れたいという。「正造は、何もかもなげうって、被害者のために尽くした。尊敬します」と話す。
谷中訪問がいつ実現するか、分からない。ただ、それまで、ぜんそくという公害病治療の最前線で、全力を傾ける。患者に優しく声をかけ、時には叱咤激励しながら、一人でも多くの子供を治したい。
兄弟で見る夢は、続いている。