東京慈恵会医科大学付属青戸病院事件

 

臨時vol 17 MRICインタビュー「もはや医療崩壊は止まらないかもしれない」(2006.6.9)
 
日々の診療を通じて、また病院の紛争対策にかかわる中で、患者と医療従事者との間がだんだん刺々しくなっていくのを感じていました。そんな時に慈恵医大青戸病院の事件が起き、嵐のような報道がされました。それを目の当たりにした時に、世間が問題だと思っていることと、私が問題だと捉えたことがあまりにも食い違っているのに愕然としました。この偏ったモノの見方に異議を唱えないと、医療は決して良くならないどころか、むしろ崩壊すると感じたのです。そこで書いたのが前著の「慈恵医大青戸病院事件」(04年9月出版)でした。ただ、それを執筆していた03年当時は、誰も私の危機感を理解してくれず、私の言葉は宙に浮いていました。


医療崩壊』も、いつか読むかな。でもとりあえずこっち。

慈恵医大青戸病院事件―医療の構造と実践的倫理 従来、民事責任しか問われてこなかったことについて、刑事責任を問うには、明確な法的根拠が必要である。私は一概に刑事責任を問うことに反対するものではない。しかし、医療に与える影響の大きさと、罪刑法定主義の観点から、刑事責任を問うための条件として、刑罰を科す前に法律を改正して、明確に罪を定義すべきだと考える。

 

小松氏自身は、患者にとって、まだメリットよりデメリットのほうが大きく開腹手術という確立した方法があるとして、腹腔鏡下前立腺全摘除術を青戸病院事件の3年前にやめていて、研究会でも発表されたそうですが「大学を支配するノイジー・マイノリティには一切受け入れられなかった」と書かれています。
 
裁判についての記事。

東京慈恵医大青戸病院事件:3医師に有罪判決 東京地裁「組織で隠ぺい」非難(毎日 2006.6.15)
 
東京慈恵会医科大学付属青戸病院(東京都葛飾区)で02年、前立腺摘出の腹腔鏡手術を受けた男性患者(当時60歳)が死亡した事件で、東京地裁は15日、業務上過失致死罪に問われた元同病院泌尿器科の主治医、長谷川太郎被告(37)に禁固2年6月、執行猶予5年(求刑・禁固2年6月)、執刀医の斑目旬(40)と助手の前田重孝(35)の両被告に禁固2年、執行猶予4年(同)を言い渡した。栃木力裁判長は「患者の安全より手術の経験を少しでも積みたいという自己中心的な利益を優先した行為は強い非難に値する。国民の医療への信頼を大きく傷つけた」と指弾した。また判決は、手術を許可した当時の診療部長と副部長、輸血処置が遅れた麻酔科医2人についても責任を指摘。大学や青戸病院についても「死因を心不全と偽るなど組織ぐるみで隠ぺいを図ろうとした」と非難した。診療部長は起訴猶予、麻酔科医2人は不起訴処分となっている。
裁判では斑目、長谷川両被告側が麻酔科医の過失を死亡原因と主張し、前田被告側は「権限がなかった」などと主張。判決は「手術を安全に行う最低限度の能力がなく、被告らの過失と死亡の因果関係は明らか。麻酔科医の行為に過失があったことで、被告に責任がないとする根拠はない」と判断した。そのうえで、主治医だった長谷川被告について、患者に十分な説明をせず指導医を呼ぶことを断ったというとりわけ重い責任があると指摘し「医師としての適格性自体強く疑われる」と述べた。
判決によると、3被告は02年11月8日、前立腺摘出の腹腔鏡手術を安全に行う知識や経験がないにもかかわらず手術を実施。誤って静脈を傷つけるなどし、輸血処置を遅らせ、大量出血による低酸素脳症脳死状態にして、12月8日に死亡させた。手術の実施に必要な大学の倫理委員会の承認申請などの手続きは取っていなかった。
斑目、長谷川両被告は懲戒解雇され、前田被告は出勤停止10日間の処分(休職中)。厚生労働省は04年3月、斑目、長谷川両被告を医業停止2年、診療部長を同3カ月の処分とした。

その後6月29日に医師3人が控訴。
7月5日、3人のうち執刀医の斑目旬被告は控訴を取り下げ1審判決が確定しています。
 
 
『慈恵医大青戸病院事件―医療の構造と実践的倫理』より。

業務上過失致死罪は定義があまりに抽象的かつ曖昧であり、医療行為の性質上、医師を断罪するのは無理がある。私は森山満弁護士がいうように、医療事故は刑事責任を問われる可能性があるが、医療過誤は刑事責任を問われないという原則が穏当なように思う。いずれにしても、刑法では個人しか裁けない。背景にある大きな問題は法廷では裁けないので、論議を法廷にとどめることは適切ではない。
今回の警察の行動は、医療界の自浄作用が欠如していたためにやむを得ないものであるとの意見もあるかもしれない。確かに、わが国の大学病院での医療は無理が多い。また、医局制度を中心に、根本的に考え直さないといけない部分が少なくない。こうした問題点は以前より指摘されていたが、学会も大学も解決に動いてこなかった。私自身、現在の医局制度と専門医制度の矛盾に警鐘を鳴らし、改革を訴えてきたが、日本泌尿器科学会では無視されただけだった。
青戸病院の事件以後、日本泌尿器科学会、日本EE学会にも変化の兆しがある。この意味で警察の行動は意味があった。しかし、ここまで述べてきたように、警察の行動にも多くの問題点がある。今回のような行動を警察が今後も続けるとしたら、わが国の医療を歪め、壊すことになると思う。

 
 
報じられた5つの問題点についての考察。
 
①手術を担当した医師が院内で行うべき手続きを怠った

現時点で初めて腹腔鏡下前立腺全摘除術を実施するとしても、すでに他の病院での実績があり成績もわかっているので、臨床試験の対象とならない。臨床試験でなく通常の医療行為として行われるかぎり、虎の門病院では倫理委員会の審査対象とならない。少なくとも倫理委員会で検討することが法律で義務とされていたわけではない。


②執刀するのに十分なトレーニングを受けていなかったにもかかわらず、エキスパートの援助を受けずに手術を実行した

医師の技量に個人差がある以上、技量のもっとも高い医師以外の手術は、問題があることになる。技量が高くないとしても、この手術がわが国にまだ定着していないことを考えると、腹腔鏡下前立腺全摘除術を実施する水準に達していたかどうかを判定することは困難であろう。判定基準は鑑定時に決められるのであって、もとからあったわけではない。刑法上あってはいけないとされる遡及処罰に近いところがある。事故が起きた後の検証結果で、手術前の医師の行動の適否を決めることには、どうしても、人間の行動を制禦する方法としての正当性に問題が残る。となると、手術前に資格審査が必要になる。
泌尿器科医のトレーニングの程度を認定する制度は、青戸病院で今回の手術が実施された時点では、日本泌尿器科学会の専門医制度があるのみであった。泌尿器科専門医資格を取得するためには、5年以上泌尿器科学会員であること、認定された専門医教育施設での実施修練が完了していること、定められた教育研修単位を取得していること、専門医資格試験に合格していることが要求されている。今回の事件の執刀医は専門医資格を有していた。

「技術向上のための人事交流は、医療界全体でシステム化すべきであるが、医局の閉鎖性と病院の経済状況がこれを許さない」し「日本EE学会は腹腔鏡下前立腺全摘除術のマイナス面を周知徹底してきたとはいえない」また「刑法には医師が事故の能力を高く評価し過ぎることを罪とする条項はない」


③開腹手術に切り替えるタイミングが遅れた

手術中の出血は開腹手術でも最大の問題である。手術を見学するとすぐわかるが、止血は易しい技術ではない。手術は絶対の安全を保証できるようなものではない。しかも、腹腔鏡手術は開腹手術より止血が難しいので、術中出血による死亡事故はこれからもおこる。術中出血による死亡が、技術上、あるいは、医療上の判断ミスとして、業務上過失致死罪に相当するとされるならば、腹腔鏡手術中の出血で死亡するようなことがあった場合、家族と警察が意図すれば、開腹手術に切り替えるタイミングが遅れたとの理由で、執刀医は刑事責任を問われることになる。タイミングが遅れたとする根拠は、死亡した事実に求められる。外科医になるには、犯罪者になることを覚悟しなければならなくなる。


④患者への説明が不十分だった

多くの新聞で高度先進医療を受ける際に必要な特別な同意書がなかったことを指摘していた。各紙の記者は警察の発表をそのまま記事にしたものと思われる。高度先進医療はあくまで医療費支払いのための制度である。本邦の保健診療では、保険診療が認められていない診療行為を患者本人負担とし、診療保健で認められている診療部分については保険から支払いを受けることは禁止されている(混合診療の禁止)。保険診療を認められていない手術を行う場合、すべての入院診療費を患者が自費で支払うか、あるいは、手術分を病院が負担するかのいずれかになる。高度先進医療の認定を受けるには、資格の認められた病院で、病院の費用負担で手術を5件実施し、この結果を添えて厚生労働省に申請する。認可されると、以後、手術については、患者個人から定められた費用の支払いを受け、手術以外については健康保険で支払いを受けることができる。混合診療禁止の例外を認める制度である。特定の診療行為が健康保険の適応を受ける前の段階の医療費支払い制度であり、「高度先進」には言葉通りの意味があるわけではない。認可を受ける前の5件の診療は高度先進医療ではないし、健康保険での支払いが認められれば、その瞬間、高度先進医療ではなくなる。
実際、本邦で多くの腹腔鏡下前立腺全摘除術が行われているが、高度先進医療として実施されているのは、その一部にすぎない。青戸病院で実施するとすれば、保険診療が認められていない通常の診療として実施することになる。保険適応外診療をするのに、いかなる手続きが必要なのかは院内の問題である。いずれにしても、高度先進医療ではないので、特別な同意書は必要ない。

そのうえで、「患者家族の怒りからみて十分な説明がなかった可能性が高い」としても、「今回の事件での説明の不備は特殊なことではない。青戸病院事件以前、本邦の多くの大学には初めての手術を行う場合、過去の経験や、準備状況を十分に説明する習慣、あるいは、文化がなかった」そうです…


⑤背景に功名心があり、これが患者の安全に優先された

功名心は、医師に対する憎悪を掻き立て、有罪にしやすくするために、警察が考えたストーリーだと思う。いずれにしても、心の中の問題なので立証不可能である。もし、あったとしても罪とするための根拠にはならない。

 
 
事故調査報告書について。

平成15年12月25日付の慈恵医大から厚生労働省への医療事故経過報告書には、主として事件後慈恵医大がとった諸々の対応が記載されていた。このなかに同年12月1日付の大学事故調査委員会報告書の存在が記載されていた。この報告書は家族に届けられ、内容が慈恵医大の教職員に説明されたという。決定版らしいこの報告書は、情報開示請求に対する厚生労働省の返答によれば、医療の監督官庁である厚生労働省には提出されていない。
私にはどうしても知りたいことが二点あった。第一点は患者への具体的な説明内容であり、第二点は患者の死が不可避になった分岐点である。この報告書を確認したいと思ったが、公表されていなかった。ある報道人が慈恵医大にこの報告書の開示を求めたが、患者家族がプライバシーを理由に報告書の公表を拒否しているとして断られた。
本来、事故報告書は再発防止のために作成される。目的からして公表されるべきものである。事故の直接的原因、間接的原因を分析し、再発防止のために何をすべきか提言しなければならない。本書で触れた名古屋大学横浜市立大学での医療事故では詳細な事故報告書が公表され、有益な提言がなされた。透明性を確保したことで名古屋大学横浜市立大学も信用を回復できた。なぜか慈恵医大青戸病院事件では報告書が公表されないままである。患者や病院関係者のプライバシーは個人名を伏せることで守られる。事故の経緯はどう考えてもプライバシーに含まれるものではない。事故の詳細な経緯は再発防止のためにはどうしても公表されなければならない。患者のプライバシーは公表を妨げる理由にならない。私は、この報告書の隠され方に理不尽なものを感じている。隠すべき理由が他にあるかもしれない。先にあげた二点、すなわち、患者への手術の説明内容、患者の死が不可避になった最終的原因に加えて、報告書が公表されなかった真の理由が三点目の解明すべき課題として残った。