時代の肖像 漁師 緒方正人さん〈上〉

 

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/jidai/0210/ji_210_021026.htm
 

おがた・まさと 1953年熊本県芦北町の網元の家に生まれた。20人きょうだいの末っ子で、6歳の時、父親が水俣病で死亡。水俣病認定申請協議会長を務めたが、85年運動を離れ、「人間とは何か」を問い続ける独自の道を歩んだ。94年水俣湾埋め立て地に野仏を置く「本願の会」を結成。著書に語りで構成した『常世の舟を漕ぎて』、講演録『チッソは私であった』。同町在住。

 
金に変換される水俣病の責任
 
自宅の前に不知火海が広がる。「しけの時、風に向かって進むのが一番安全。世の中も同じかもしれんですね」と緒方さんは言う(熊本県芦北町女島で)
漁師だった父親を水俣病で失った緒方正人さん(48)がチッソや行政の責任を問う闘いの渦中から突然退き、自らの患者認定申請を取り下げたのは、加害が金銭であがなわれ、そこに人間の顔がないことへのどうしようもない違和感からだった。以来17年、認定制度や裁判を通して補償を勝ち取っていく運動の“本流”から孤立したかに見える緒方さんの中で、水俣病が終わったわけでは決してなかった。「こんな決着で人は救われるだろうか」。焦燥の中、「一人」の場所から考え続け、到達した思想は現代のありようを鋭く批判する普遍的な響きを持っている。(田口 淳一)
緒方さんは、運動体を抜けた後、「狂った」。医学的にどういう病名かは分からない。焼酎を1升飲んでも眠れず、食べ物を前にこの中にどれだけの生き物がいるかと思うと涙がこぼれ、〈「人んちに勝手にあがりこんで、ここへ行けの、これば買えの」〉と叫ぶテレビを庭石で壊した。周囲には明らかに異常に見えただろう。だが、異界をさまよった魂がふっと現世に舞い戻るように3か月後正気になった。(『常世の舟を漕ぎて』)
 
◆壮大な物語の読み解き
「振り返ると、壮大な物語の読み解きをさせられているようだった。それもわずかなヒントを与えられ、ものすごいスピードで読み解かないといけないような感覚。今まで見えなかったり聞こえなかったものを敏感に感じるような体験もあった。運動に代わる考えがあったわけじゃなかったから、生まれて初めてすべてを捨てて1人になったという孤独感が強かった。自分の帰属する世界が見えないというのは、底知れない真っ暗やみの中に投棄されたようで、あんなに怖いことはなかった」
手足のしびれ、耳鳴り、下半身の硬直といった不調を覚えてもいた。父親の絶命時の記憶にかき立てられた激情のままにチッソを恨み、父親のあだ討ちを誓って突っ走ってきた運動への考えが、「狂い」の中で逆転した。1985年末のことだ。
「80年代に入って何かがくすぶっとったですね。日本中で海や山が売られ、あぶく銭が乱れ飛ぶ、金偏重の世の中。一方で水俣病の運動は裁判をいっぱい抱えて制度の中のやりとりが多くなった。おれは何を求めてきたとか。いろんなことがおれの中で爆発点にきとったと思う。このまま運動体におれば、自分ば偽って生きらんばんごとなる。それがたまらんかった」
患者や家族が求めていたものとは何か。制度を通して獲得していくものとの間に一体どんなずれがあったというのだろう。
「おれの中では金が意味をなさなくなっとった。じゃ何かというとなかなか答えは出ん。認定されて補償金を受ければ受けるほど患者たちも世間も水俣病について語らなくなり、裁判で勝っても結局金銭的な決着でしかない。そんな現実を見とって、法律や制度、そういう仕組みの中の水俣病になってしもうたとじゃないかと思うたですね」
〈この運動は、水俣病四十年を迎えて、大方、ある処理機構の中に入れられてしまった〉。緒方さんは著書『チッソは私であった』で、未認定者らに対する「最終解決」と言われた95年の局面についてそう述べている。
 
◆人間の責任も制度化
「以前はチッソの社長らと談判するような直接性があったけど、相対の関係が成り立たなくなった。加害責任を追及することが結果的に一生懸命制度を作ってきたのかもしれん。おれたちは目に見えないシステムとけんかして空回りしとったが、本当は人間に会いたかったとですね。だけど、責任主体の人間はどこにも見当たらん。あるのはシステムとしてのチッソ、行政、社会で、『人間の責任』も制度化してしまっとることに気づいたわけです」
思想家渡辺京二氏の評論「現実と幻のはざまで」(初出=71年、『渡辺京二評論集成Ⅱ 小さきものの死』所収)における指摘は、おそらく緒方さんがこうした考えに至らざるを得なかったことの説明となるに違いない。そこではこう語られる。
患者が裁判に求めたのは補償金だけではなく、〈この世に、人間的道理が行われること〉であった。〈近代市民社会の論理によって統合されない〉ままだった漁村には、例えば息子が隣の息子にけがを負わせれば何よりまず詫(わ)びと見舞いに駆けつけねばならないような〈村共同体の論理と心情〉が保たれ、補償で事足りる資本制社会の〈常識〉は理解を超えていた。
「患者には裁判という発想はなかったはず。水俣に工場があるからチッソを憎むのはわかりやすいが、行政の責任を追及するという考え方はなかったでしょう。言い方を換えれば、権利を主張しようというような近代社会の考えがそこに持ち込まれ、患者は訴訟社会に引き込まれたとも言える。運動自体が共同体の近代化への歩みだったのかもしれん。それで獲得したものはいろいろあると思うけど、何か重要なものを失ったという気もします」
「金という物差し」で「システム」の中で語られる水俣病。「商取引」でもあるかのように、責任が金に変換されていく。緒方さんは、それが水俣病事件に限らない、現代の諸問題に貫徹しているシステムだと感じた。もはや加害者と被害者、責任を問う側と問われる側という2項対立的な見方だけでは「人間の責任」には迫れない。緒方さんのまなざしはひたすらそこへ向かったのである。
(読売新聞 2002.10.26)