時代の肖像 漁師 緒方正人さん〈下〉

 

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/jidai/0211/ji_211_021102.htm
 
罪深さを背負い魂の救いに祈り
 
父親が壁や柱を引っかいてもがき苦しんだ末、水俣病の発病から2か月で亡くなったのは1959年。その年生まれためいは胎児性水俣病だった。やがて成長しためいと緒方さんが語り合う場面を撮影したいというテレビ局の申し入れを承諾した時のめいの言葉は忘れられないものとなった。
「めいは、裁判に加わってなかったし、支援者ともマスコミともほとんどかかわりがなかった。そのめいが『チッソは恨んどらん。もう過ぎたことやっで、自分がこれからどう生きていくかを大事に考えたか』と言うとです。おれはまだ運動に全力を挙げとった時期やったから正直驚いた。いまは、それがよう分かる気がすっとですよ」
水俣病ということを抜きに生きようとしている」めい。加害と被害という2極にこだわらない見方に、緒方さんは自らの思いを重ねる。
「めいは受難、あるいは災難と受け止めとったとじゃなかろうかと思う。公害病には加害者、怒りを向ける先がある。それはほかの身障者の場合と違う。おれも親父のあだ討ちば考えとった。自分をただ被害者と思っとる限りそこから一歩も進めんのですね」
「受難」という地点に立つ時、どんな視界が広がるというのか。
「制度やシステムの中で補償という救済を得ることは、加害と被害という観点でしかない。だけど、チッソの工場排水で死んだのは人間だけじゃなか。イヲ(魚)も猫も豚も鶏も海の鳥も、その命に対して、加害だ被害だ言ってもしょんなかでしょう。生き物からすれば人間たちがやったことでしかなかわけで、どう詫(わ)びを入れるのか、銭金じゃ通用せん、そういう罪深さが人間にある。それを水俣病事件史は投げかけてきたとやないかと思う」
加害も被害もかき消えるかのような論理にはしばしば「加害者を許してしまう」という疑問が投げかけられてきた。
 
銭金での責任は表層的
チッソの犯罪性が許されるということじゃないとです。この時代状況では、例えば化学工場で作られたものが家の中にいっぱいあり、いわばチッソ的な社会の中にいて、被害者か加害者かどちらか一方であり続けることはできん。だけどそうした人間の責任も、罪深さも自覚されず、様々な仕組みや制度でそれは埋め立てられてきたのじゃないか。責めを負ったのは被害者ではあったけど、埋め立てたのは加害者だけではなく、責任を追及してきた側でもあったという気がする。銭金に置き換えるしかない責任は表層的でしかない。結局逃げまくり責任を取りきれない、そういう罪深さが本質にある。それごと背負うしかないと思うようになったとです」
著書のタイトル『私はチッソであった』には、そのような認識が込められている。「近代化」や「豊かさ」を求めたのは〈私たち自身ではなかったのか〉という自問である。
「加害者、被害者という物差しの中では、被害者として安住できた。その物差しが意味をなさなくなると、自分とは何かを考えざるをえなくなった。一人であることについて考えることでもあった。肥大化したシステムの中で、社会が水俣病は終わったことにしようとしても、たとえおれたち夫婦2人でも、火種はここにあっとぞ言える。おれの中では終わらんとです」
87年から翌年にかけて週1回、チッソ前に単身座り込んだ。七輪で魚を焼き、焼酎を飲んで「1日そこで暮らす」。むしろ旗には「チッソの衆よ そろそろ『人間の責任』ば認むじゃなかか」「被害民の衆よ 患者じゃなか、人間ば生きっとバイ」と記した。「武闘派」を任じたことさえある緒方さんの“穏やかな”問いかけだった。
「あん時は、初めて一人の自分を表現しようと思ったとですね。チッソの答えに期待もしないし、絶望もしない。大事かとは数じゃなく、魂や意志であり、自分の気持ちを表明することと思っとったです」
ここで言う「魂」は自らの魂だけを意味してはいまい。父親をはじめ、緒方さんが向き合おうとする多くの「失われた魂たち」でもあるに違いない。
 
◆魂は生命の記憶
「組織を離れて『狂った』時、生まれ育ったこの古里から打ち据えられたんだと思うた。運動のため東京に60回ぐらい行ったけど、おれは、ここの海や山にはないものを追っかけよったとじゃなかとか。その時、生まれた場所につながったという実感があるとです。おれは、魂というのは生命の記憶と思う。そこが命の本籍というか、帰っていく場所だという気がする。魂が濁れば生命の記憶はかすんで見えんようになる。現実の世はそういうふうに濁っとるとじゃないか。おれたちの本願の会が水俣湾の埋め立て地に野仏をまつり手を合わせるのも、魂の救いを祈っとるとです」
いま「環境」を守ることにだれも異議は唱えない。幾多の公害病という重い代価も払ってきた。だが、その重さに、盛んに使われるようになった「環境」という言葉は見合っているだろうか。
「『環境』というとき、人間と切り離された外側の条件として語られ、人間中心主義は何も変わっとらん気がする。『公害の水俣』もいつの間にか『環境の水俣』にかわって、環境学習とか観光とかと、ブランド化、商品化して制度におさまっていく。すべてを否定はしないが、『環境』が人間の顔のないものになってはいかん」
〈天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい〉(石牟礼道子苦海浄土』)。かつて、そんな海との暮らしがあった。その不知火海へ緒方さんは漁に出る。だが海にあった季節のサイクルには、近年異変が目立ち、魚は激減しているという。農薬や生活排水の流入、稚魚が育つ干潟の埋め立てなど「複合的な理由」が語られる。水俣病事件の問いは、そこでも生きていなければならないはずだ。(田口 淳一)
(読売新聞 2002.11.2)