情報化社会と学校と、個のニーズと習熟度別指導と特別支援教育と…

 

広がる習熟度別授業 現場の取り組み(上)(読売新聞10月4日)
一方、中学では高校受験との関係で悩む学校が多い。府内の公立高校に提出する内申書(調査書)は、全国で主流の絶対評価(目標に対する個々の到達度)ではなく、生徒を十段階で評価する相対評価。各中学ごとに生徒の位置を表すこの評価法では、習熟度別の授業ごとに取り組んだ生徒の成果を評価に反映させにくいからだ。
六月から二、三年生の数学を「発展」と「基礎基本」に分けた住吉第一中(住之江区)。九月中旬の三年の基礎基本の授業は、発展より約十ページ前の教科書の内容だったが、男子生徒は「みんな一緒の授業より、わからない所を聞きやすいからいい」と歓迎した。
教師たちも「時間はかかっても、復習で忘れていた内容を確実にすれば新しい単元も理解できる」と手応えを感じた様子だ。しかし、定期テストは両コースとも同一内容にせざるを得ず、教師の一人は「早い時期に、全員が学習内容を自分のものとして定着させ、三年では習熟度別授業はなくなるのが理想」と指摘した。

広がる習熟度別授業 現場の取り組み(中)(読売新聞10月11日)
「教師による『落ちこぼし』を防ぐのはもちろんですが、同時に『伸びこぼし』も解消する」
区の重点校として〇一年度から習熟度別授業に取り組んでいる第三日暮里小で、この九月まで教頭を務めた末吉潤一・現江戸川区立第四葛西小校長(52)は、授業の狙いをそう説明した。
現在、全学年の算数と、三―六年の理科に取り入れている第三日暮里小では、児童は新たな単元に入る際、テストを受け、その結果を見て自分で「じっくり」「ヒント」「自力」の三コースから選ぶ。授業の後半期には「ふりかえりテスト」を受けて理解度を測り、復習、補充、発展問題のいずれかをするコースに分かれる。
末吉校長は「コースの選択機会が二度あるので、それぞれに合った授業をすることができ、つまずきそうな子をすくい、伸びる子はさらに伸ばしてやれる」と話す。

広がる習熟度別授業 現場の取り組み(下)(読売新聞10月18日)
習熟度別授業が全国の小中学校で広がる中、京都市西京区の市立新林小は、これまで通り一人の教師が学級で教える「一斉授業」の改善に取り組んでいる。久保斎教諭(54)は「まず、自分で結論を導き出す力をつけさせる。それが友だちに影響を与えたり、友だちから学んだりすることで、子どもは一層、鍛えられる」と授業の狙いを話す。
そんな、児童同士で刺激し合えるような活発な授業を可能にするため、同校は、学校全体で基礎学力アップに取り組んでいる。


習熟度別や一斉など授業法の違いは、子どもたちにどんな影響を与えるのか。文部科学省国立教育政策研究所が今年六月、小中学生延べ約二万二千人の調査をまとめたところ、「学力向上」には習熟度別授業が効果的だが、子どもたちの「興味・関心・意欲」では、小学生では三、四十人の学級で行う一斉授業が有効という結果が出た。

情報化に対応して知識社会を築きあげている北ヨーロッパ諸国はいずれも、公的教育負担の比率が高い。公的教育機関に対して支出される教育費の対GNP比は、各国にくらべて日本が最低である。*1スウェーデンは初等・中等教育だけで、日本の公的教育機関に対する全支出を上まわっている。情報産業の世界的企業ノキアの母国フィンランドは、日本の二倍を上まわる教育支出をしている。
日本の公的教育機関に対する教育費の対GNP比は3.6%と、アメリカの5.7%を大きく下まわっている。市場化、市場化とアメリカに踊らされているうちに、ついにはアメリカをも大幅に下まわる惨状となっているのである。こうした教育に対する支出を怠り、人間の能力をないがしろにして、国際競争力、国際競争力といってみても、国際的に太刀打ちできるはずもないのである。
 
『人間回復の経済学(神野直彦 2002年)』より

1979年、養護学校が義務化された。その前年あたりから、普通学級に通っていた障害児が、強制的に養護学校に転校させられる事態が続出した。
校長が母親に「学校に火事が起こり、お子さんが足手まといになって、健康な旧友が焼け死んだらどうしますか」と本音で迫ったケースも存在した。しかし、大抵は「じっとしているのが嫌なクラスに縛り付けられるより、のびのび自由に個別指導を受けた方が、お子さんの幸せです」と教育的に説得するのだった。
(中略)1990年代、五体不満足が流行するほどに、身体障害者の社会参加は広がり始めた。その反面、「未就学の障害児の就学を保障する」目的で義務化された養護学校が、結果として普通学級に学ぶ知的・精神障害者を排除したお陰で、1970年代までどこの学級にでも見かけたような子どもを、「おかあさん、お宅のお子さんのような子は、今まで見たことがありません」などと語る教師が増える。慣れというのは、実際恐ろしいものだと思う。
「こんな子がいると、学級経営が成り立たない」
これは明治政府が学校令を発して以来、障害児に対して、一貫して投げかけられてきた論理である。しかし、農業社会や工業社会では生産性のなかった身体障害者に対して、ホーキンスが活躍できるほど成熟した情報産業社会は、この論理を撤回し始めた。その反面、農業社会や工業社会では一定の有用性を認められてきた知的障害・精神障害に対しては、情報産業社会を危機に陥れる存在という新たな偏見によって、この論理が強化され始めている。
 
『学級崩壊とADHD(石川憲彦 2002年)』より

習熟度別授業については、「あんたはチャレンジ学級か」とささやかれながらも、それでも親は「習熟度別がいい」とか「通常学級がいい」とか言うことになっている。「LD親の会」の中では、「(障害児に)光が当たって良い。」という声もあるが、「パイの奪い合い」になってしまうのではなく、ある意味では困難だが、ある意味では大きな運動になりうるという取り組みを進めていかなければならない。
 
ニーズに応じた教育と「特別支援教育」を考える(京都教育センター公式HP)より

そもそも学校は、階級や階層や人種や性の格差を克服し平等な社会を実現することを社会的使命としていますが、もう一面で、差別と選別によって階級や階層や人種や性の格差を再生産する機能を担わされています。この差別と選別は、能力や進路に応じて学習コースを振り分けるトラッキングにおいてもっとも顕著に機能しています。「習熟度別指導」は、トラッキングの一つの方式です。
 
『習熟度別指導の何が問題か』より

 
 
学校が「個の多様なニーズに応える」とはどういうことなのか、むずかしいです。
「個性を尊重する」からと、それぞれを個に押し込めるだけのことになってしまわないのか

それが関係性の豊かさに「多様がある」を否定することにならないのか
「習熟度別は差別じゃないか」て感覚も差別的なのか
インクルージョンなんて健常者の理想を押し付けている」のか
子どもにとってどうするのがいいのか…
いま私には、これ以上は書けませんデス。
 
私は“個性”て言葉がうまく使えません。
どうにも掴み損ねている気がして、うまく使えない。
だから「個人差といわれるものはまだまだ粗雑な概念である(中井久夫)」に共感したりします。
 
 

*1:フィンランド:7.3%、スウェーデン:6.7%、デンマーク:6.2%、アメリカ:5.7%、フランス:5.1%、イギリス:4.1%、ドイツ:3.7%、日本:3.6%