習熟度別指導

 
ヒイラギが咲いています。
キンモクセイよりかるい、甘いにおいがする白い小花が可憐ですよ。
 
 
習熟度別指導について。
息子は3年生の算数で習熟度別指導を受けました。
2つのクラス*1に分かれての授業でしたが、各単元のまえに子ども自身にクラスを選ばせていたようです。
保護者の希望を聞くということはありませんでした。てより、習熟度別の説明はなくて
「少人数授業を実施します」程度のお知らせで、子どもに様子を聞いてはじめて習熟度別授業とわかりましたし
少人数授業=習熟度別授業とも知らなかったのです。わかってからも学校に問い合わせはしなかったのは

いったい、なぜ「習熟度(能力)別指導」は容易に普及し学校に根をはってしまうのでしょうか。
その要因の一つは、子どもや親そして教師の多くが抱いている素朴な観念にあると思います。
その素朴な観念とは、習熟度や能力の異なった集団で授業を受けるよりも、できる子はできる子同士で授業を受け、できない子はできない子同士で授業を受けたほうが教育の効果があがるという考え方であり、できる子は高いレベルの内容、できない子は低いレベルの内容で教えたほうが教育に効果があるという考え方です。
この素朴な観念がいかに多くの間違いを含んでいるかは、オークスの研究をはじめ、これまでの膨大な調査結果が示しているとおりです。しかし、それにもかかわらず、この素朴な観念は簡単に揺らぐことはないでしょう。この素朴な観念は、わかりきったことを教えられ退屈してしまった「できる子」としての体験、あるいは、難解な内容を教えられ理解できなかった「できない子」としての体験という個々人の被教育体験にもとづく実感によって形成されてきたものだからです。
『習熟度別指導の何が問題か』より

このような考えはあったからだと思います。
一斉授業に対する漠然とした不満は、だれもがもっているものなのかもしれません。
 
クラス分けについて「どちらがいい」と訊かれれば子どもだって「はやい」を選びたいでしょうけれども
息子に聞いたところでは「はやい」のほうがすこし人数が多いくらいで分かれていたそうです。
先生によるなんらかの調整があったかどうかはわかりません。
翌年度はT・T(ティーム・ティーチング)に変わったので、評判がよくないのかな〜と思ってました。
5年生になって、一斉授業に戻っています。
どうして毎年変わるのですかと訊いてみたところ
「T・Tは教員のなかでも評判がよかったのですが、今年は予算が下りませんでした」
とのことでした。そーすか、予算の問題、なんですね…
けっきょく私には、子どもにとってどれがいいのか判断のしようがなかったけれど、それ以前に
そのヴィジョンのなさにはがっかりしました。
新しい取り組みで、いいもわるいもすぐに結果が出るものではないのはわかったことですし
ある程度の期間の計画がなければおかしいのに、だから問題点があるから止める、改善する

手ごたえがありそうだから継続するとか、せめてそれくらいの姿勢はないものでしょうか。


賛成しようにも反対するにもよくわからないままなのです。
息子に訊いてみても「んー、どれでもいっしょ」で、どうやら「嫌いな算数が好きになる♪」ほどの効果は
なかったみたいです(笑)


この素朴な実感の前提を問い直す必要があります。
一つは、この素朴な実感は、いずれも画一的な一斉授業を前提としていることです。確かに、画一的な一斉授業を想定する限り、「習熟度(能力)別指導」は一定の妥当性を持っているように思われます。しかし、教師が教卓に立って黒板と教科書を使って説明し、生徒がノートに筆記して試験に備えるという伝統的な授業のスタイルは、今や欧米諸国では博物館に入っています。
現代の教室は、テーブルで構成された小グループの協同学習を基本としており、プロジェクト単元による主役的な学びが展開されています。しかも、いかに多くの知識や技能を習得するかという学びの「量」よりも、いかに豊かに深く経験するかという学びの「質」が価値を持つように変化しています。今日の「習熟度(能力)別指導」の是非を問うには、21世紀型の学びに即して、その功罪が検討されなければなりません。
『習熟度別指導の何が問題か』より

ふ〜、21世紀型の学びってどんなでしょか??
文科相は「子どもにも競争原理を」とお考えだそうですね。

「子どもにも競争原理を」 文科相、学力調査見直しも(産経新聞10月5日)
中山成彬文部科学相は5日の会見で「もっと子どもたちが切磋琢磨する風潮を高めたい」と、子ども同士にも競争原理が必要との認識を示した。
その上で、文科省が実施している教育課程実施状況調査(学力テスト)について「全体の中で、自分がどういう位置にあるのかを自覚しながら頑張る精神を養うよう検討していったらいい」と、見直しが必要との考えを明らかにした。
文科相は「前回、政務次官を拝命してから13年がたつが、日本人が外国人に負けていることを痛感した。頑張らないと日本は大変なことになる。これまでの教育は競争しない方がいいという風潮があった」と強調。
「現実の社会に出ると非常に厳しい競争にさらされる。ギャップを感じ就職しても辞める人もいる。21世紀の日本が世界の中でごしていくためには、競い合う気持ちが大事だと分からせたい」と述べた。

国際競争力がつくことを目標にするにしても“力がつく”は、あくまでも結果のはずです。

むやみに競争させればいいかのような考え方は、あまりに短絡的ではないでしょうか。
 

「競争か協力か」という問いは、長年、教育にとって論争問題の一つでした。ほとんどの人は「競争」による動機付けをなくしてしまうと、学びの意欲は低下し学びの生産性は損なわれてしまうと考えています。一般の人がそう考えているだけでなく、教師の多くも、あるいは教育学者と教育心理学者の多くも「競争」は学びの動機付けとして決定的であると想定してきました。
「競争」を学びの推進力とみる考え方は学校教育の隅々に浸透しています。受験競争はその典型ですが、学期ごとの中間テストと期末テストによる評価、あるいは日々の授業に見られる「発言競争」なども競争文化の一つの表れと言ってよいでしょう。
しかし、実証的な調査結果はいずれも、個人主義的な「競争」が学びを促進するという一般の通念を覆す結果を示しています。その代表的研究は、1981年に公表された社会心理学者のデビッド・ジョンソンとロジャー・ジョンソンによる、「競争か協力か」をテーマとする調査研究のメタ分析(選考する調査研究の再検討)です。ジョンソンらは、1924年から1980年までに実施された「競争か協力か」をテーマとする122の調査研究のメタ分析を行っています。
その結果、「協力的な学び」が「競争的な学び」よりも高い学力を達成したという研究が65件、反対の結果を示す研究が8件、両者が統計上の有意な差異を生み出していないという結果が36件でした。
「競争」に対する「協力」の優位性は明らかです。
『習熟度別指導の何が問題か』より

とにかく(あ、)「競争」が効果的ではないということは示されているらしい、です…
学校での評価のなかではなんらかの競争はなくならないでしょうし
「協力的な学び」がどういうものなのか、私には具体的にわからないので困ってしまいますけれど
ただ、競争に「学びの動機付け」が期待できるのは、ほんの短期のことだと思っています。

だって子どもはあきちゃいますもん。
最初は刺激になったとしても、メニューや表彰のやり方がよほどバラエティに富んでいなければ
競争だって「順番が決まる」ただそれだけのことじゃないですか。
そのうち順位や勝ち負けが固定してしまえばもう、ちーともおもしろくなくて
「どーでもいいや」になっちゃうの、早いですよ。
競争の結果に、子ども自身にとって意味のある具体的な価値*2を示してやることができるならまだしも、
漠然としたオトナの価値を押し付けて、
子ども自身にとっての意味は周囲の顔色だけにしかないような競争ならつまんなくて当然で、
それが「学びの動機付け」になるとは思えないのです。
おもしろくないことは続かないのが子どもです。息子だけかもですけれど。
でも、大人もそうじゃないですか…
ちょこっとわからない知らないことが「知りたい」て好奇心を刺激するんじゃないかなって思うけれど、
お勉強はつまらなくてゲームより退屈で、なかなかむずかしーわけで、漢字の宿題はいつでも嫌で
計算ドリルはめんどくさくて作文は3行ぽっちなんですね。
上手な「学びの動機付け」の方法があれば教えていただきたいです、はい。
 
親には定点観測(ぐ、ヒドい…)ができません。“ウチの子”なら変わっていきますもの。
ですから「学力低下」といわれれば、だれでも不安になるでしょう。「学習内容3割減!!」
なんて聞くとなおさらです。そこに「わからない子をなくすための習熟度別指導」といわれれば、
そーなのかって思っちゃうでしょう。「わからないよりわかるほうがいい」のも人情ですし、
少人数授業と聞くと目が行き届いて、ていねいな授業になりそうな気がしてしまうわけです。
「不安解消のため親には支持されている」と目立った反対はないかもしれませんが、
ほんとうに学力は低下しているのか習熟度別指導が客観的にどうなのかを考えて
支持しているわけでもない気がします。
大学生に高校の補完授業をしなくてはいけないとか、学力テストの点数が下がっているとか聞くと、
やっぱり低下しているのかなと思わなくもないのですけれど、正直よくわからない…
いくつか記事を読むと、子どもたちの評判もわるくないみたいです。でも

「下位」クラスの子どもに質問すると「授業がわかりやすいから楽しい」という肯定的な回答が多いようです。授業内容のレベルを下げているのですから当然の結果です。
『習熟度別指導の何が問題か』より

ですよね…
 
 
いま学校は、なにより時間に余裕がないのではないでしょうか。

夏休みを1週間短縮 授業増で学力向上狙う(山陰中央新報11月10日)
東京都の葛飾教育委員会は10日までに、学力向上などを目的に授業時間を増やそうと、2005年度から24の区立中学校で夏休みを1週間減らし、2学期を8月25日から始めることを決めた。自治体内のすべての中学で夏休みを短縮するのは全国でも珍しいという。
同区教委は、小学校でも06年度から夏休み短縮を始めたいとしている。
区教委によると、02年度からの週5日制の完全実施で、約1050時間あった授業時間が約70時間減少。習熟度別指導などに当てる時間が不足し、学校独自の行事が削られる問題も出ていた。
夏休み短縮で年30時間増える授業は各学校の判断に任せるが、一部の教科の授業増や職場体験の時間などを検討しているという。

時間数は減っているのに、パソコン、英語、職場体験などが詰め込まれては、
子どもにも先生方にも時間的な余裕がないのは当然でしょう。*3
そのうえ「生きる力をつける」な道徳の時間は減らせないようですし。

小学校の「道徳」は年間35時間、初めて標準超える(朝日新聞11月8日)
小学校の道徳の授業時間が全国平均で初めて年間標準の35時間を超えたことが1日、文部科学省が5年ぶりに実施した「道徳教育推進状況調査」で分かった。02年春に国が一律に配布した冊子「心のノート」は小中を通じて使用率は9割を超えた、としている。
調査は全国の国公私立小中学校計約3万4000校を対象に、昨年10〜12月に実施した。道徳の授業時間は、小学校で前回の33.9時間から35.3時間に、中学校は31.0時間から33.6時間に増加した。学校教育法施行規則は、標準を35時間とすると定めている。

習熟度別指導は、時間の足りなさを解消するために効率が求められ取り入れられている気がします。
それが学力低下の不安に煽られて普及してきたのでしょうか。
だけど、ほんとうにそれでいいのかな…
 
 
 
「個に応じた」は、とても魅力な言葉です。
ただ、それを不平等があっていい理由にしないかぎりにおいて、です。
上位クラス以外の子どもの成長にプラスにならないなら、その目的がエリート養成であったりするなら
やっぱり不平等ではないでしょうか。
 
 

*1:その名前がイカしてました。イルカ(はやい)とマンボウ(ゆっくり)です。

*2:たとえば異性に注目されるとかかしらん、いわゆる不純な動機ですね。そのうえ「人間なんて所詮不純な生き物ね♪」とか言っちゃうと、ミもフタもないわけですけれども(笑)

*3:子どもに「善き教育」を施そうと、サービスエネルギーを過剰に注入しすぎ、結果的に自律するチャンスを奪ってきた。知識やディシプリンを身につけないと「一人前になれない」という神話が横行しているが、実は子ども自身はすでに生活を営んでいるのであり、それなりに一人前なのである。問題は学校というところが、未熟でありながらも原初的な感性や力を使って楽しみ、かつリスクも含んだ全体性のある場になっていないということにある。学校はディズニーランドをめざしてはならない。『教員の“立場”とその困難性(岡崎勝)』より