冬休み中拝見したなかに「努力する姿を描かないコミックスが子どもたちにウケてる」
というのがあって、おもしろかったです。

今の子供達の考える自分が自分である特別な存在って、みんな<天与>のものでしかないのか?そんなモノでゲームがすべて規定されるのだろうか?

と書かれていました。
 
ONE PIECE』は飽きちゃってアラバスタあたりまでしか読んでないけど、
たしかに能力者とノーマルの差は圧倒的なんですよね。私なんかはその差を楽しんでいたとこがありますけれど
好きなのはウソップだったりしますデス。
テニスの王子様』は、ライトさがいいのかな。
 
コミックスには子どもの憧れを吸収する部分があって、そういう、いわゆる才能や
それを活かせる環境への憧れなら昔からあるような気はするけど、血が滲むような努力に美学(大げさっ)を
感じるようなのは流行ってないのかな、やっぱり。
だからちょいヌケ(能力者が泳げないとか)やキャラのスキで、
あざとさを消臭したい表現上の計算はあるかなと思ったりもします。「カンペキでもないからね」って。
ドラゴンボール』も『HUNTER×HUNTER』も読んでいないのでなんとも言えないですけど
カードゲームも1枚売りのレアカードが売れてたりしたし、ショートカットする(できる)のは簡単
て傾向はあるかもしれないです。ただ、うらやましい反面「やっぱりズルい」だったりもする。
息子は『ONE PIECE』も『NARUTO』も好きです。
それほど変わってない部分も変わった部分もあるんだろって、つまんないことしか私には言えないけれど
いろんなことのプロセスは、複雑で見せにくくなって見えにくく軽くなってるのかな??
表出した結果それぞれに、プロセスはあるはずでしょうけれども…
 
で、思い出したのは『「個性」を煽られる子どもたち』(ASIN:4000093339)で
「子どもたちの親密圏の重さと公共圏の軽さの理由は内閉化する個性への憧憬にある」としていたことでした。

彼らが価値を見出すのは、あくまで素のままの存在感なのです。
若者たちが切望する個性とは、社会のなかで創り上げていくものではなく、あらかじめ持って生まれてくるものです。人間関係のなかで切磋琢磨しながら培っていくものではなく、自分の内面へと奥ぶかく分け入っていくことで発見されるものです。自分の本質は、この世界に生まれ落ちたときからすでに先在していると感受されているのです。

個性的な存在たることに価値を見出そうとする近年の傾向は、現在の日本に見受けられる歴史感覚の欠如と密接に関わっています。(中略)
彼らにとっては、現在のこの世界だけがリアリティをともなった世界のすべてとなっています。彼らは、まさしく「世界の中心」を生きているのです。

セカイ系だし(笑)
なんとなく説得力あるんです。でも、このわかりやすさに納得できなかったりもするんです。
セカチューも読んでないですけれども。
 
 

ヒーローものゲーム、子供の攻撃性増加の可能性

坂元教授らは2001年11月から12月にかけて、神奈川県や新潟県などの小学5年生を対象に、よく遊ぶテレビゲームと攻撃性に関するアンケートを実施、1年後に同じ児童に追跡調査を行い、周囲の人への敵対心を表す「敵意」など、攻撃性に関する5つの指標について、その変化を調べた。
6校の児童592人についての調査結果を分析すると、知的だったり、見た目がかっこよかったり、魅力的な特徴を持つ主人公が登場し、攻撃するゲームでよく遊んでいた児童は、1年後に「敵意」が上昇していた。「ひどいことをした悪者に報復する」という、暴力を正当化するゲームでよく遊んでいた児童も同様に「敵意」が高くなっていた。

このくらいの年齢の正義感ってすごい。
その“許せなさ”には、ちょっと手がつけられないと思うときがあります。
ロボットが戦争に利用されてるなんて番組にはブチ切れで
「技術的には軍事も民生利用も変わらない、違うのは使うひとの目的だけ」とか言っちゃうと、もう半泣きです。
自身が正義あるいは善の側にいることを疑わない、彼にとっての正義のためなら暴力もあっさり肯定します。
迷いもなく乱暴に、それが正しいとしてしまう。「わるいやつは死刑にすればいいじゃん」みたいな。
その矛盾と危うさになかなか気づいてくれない。むずかしいです。
このような正義感を恣意的に利用したいと思えば、たぶんたやすいでしょう。
だから、全国一律の補助教材で“道徳的な正義”を教えるより、たしかな基準などもてないでいることを
学んでほしい気がするのだけれども。
 
プロセスを見ようとしなければ、年齢を重ねても、その“純粋さ”を引きずることになるでしょうか、わかりません…