歌わないことで表現しているものの重さは大きな声で歌ってみても消せない。
歌うことが意味してたものは、いまはないのなら、いま国歌を歌うことの意味ってなんだろう。
それは「歌わないのは許されない」ようなものなのか、そうならそうであっていいのかな。
「新しい歌を」ともいわれるけれど国歌が必要なのかどうかも、ほんとは私にはわからない。
だけど、必要なら、歌えないひともいる傷ついた国歌のままでいいような気もする。
だから「国歌だから歌わなければいけない」て、すごく困る…
 
 
「息をつく空間」 拝見しました。

次善の策として僕たちに講じることが出来るのは、いかなる状況にも対応できるように、国内に出来うる限り多様な言論を胚胎させておくことだけだ。今、誰も見向きもしないような主張が、将来も同様に無益である、と断定することなど誰にも出来ない。そういったものが存在すること自体が、僕たちの社会における最大のリスクヘッジなのだ。

 
その多様の幅を狭めることを、学校で子どもたちに教えている気がして不安になります。
 
 
被爆者が描いた原爆の絵に書かれてた
『やがて少女たちは明るくきれいな声で君が代を合唱しはじめました』を読んだとき、私はこわかったです。
なにが起きたのかわからなかっただろう「絵にも言葉にもしつくせない」「そりゃあもう、地獄よ」…
そんななかで、歌うのかって。