すこしずつ、日が長くなってきました。
 
ゆとり教育について。

政治主導の「脱ゆとり」文科相、教育見直し発言次々(朝日新聞 2005.2.20)
河村前文科相は「授業時数を増やせば、問題が解決するものではない」と述べ、習熟度別授業などによって学力の下位グループに手を打つことこそ重要だと強調する。
文教族の重鎮である森前首相も「ゆとり重視派」の一人。中山氏も出席した17日の派閥総会で「私は文科相と多少意見が違う。ゆとり教育は大賛成」と言い切った。
藤田英典国際基督教大教授(教育社会学)は指導要領スタート時から「4年で改訂される」と発言していた。「『自ら学び自ら考える』といっても基礎的な知識がなければ不可能だ」。週5日制については「毎週からまず隔週に戻して各教科の授業時数を考え、残った土曜休みは学校が地域と連携して、子どもの居場所確保を考えた方がよい」と語る。
一方、加藤幸次・上智大教授(学校教育学)は「詰め込み時代の再来になる。いじめや不登校が深刻化するのでは」と危惧(きぐ)する。「授業時数を増やせば学力が上がるというデータは何もない」と指摘し、「総合的学習は主体的に学習に取り組む姿勢を育てるのが狙いで、教科よりむしろこちらが基礎基本」と反論する。指導要領のあり方も「地方分権の時代、国が教育内容をすべて決める前提で検討するのはおかしい。拘束力を弱める大綱化の方向に踏み出すべきだ」と話している。

失敗とか書かれてますけれども、導入時に寺脇氏はきちんと
「一時的には学力が下がることがあるかもしれない」て言ってたじゃないですか。
「一時的」て言うのがびみょーにいやらしいって思いましたけれど、それでもあえて“ゆとり”だったはずです。
学力については家庭学習(よーするに塾♪)を見込んだうえの“ゆとり”でしたから
差が大きくなっちゃうんでしょうね。すみませんデス、はい。
 
 
成熟社会の教育再構築を/体温の高い人材減が問題/学力で宮台真司さんに聞く(MIYADAI.com Blog)を読みました。

問題は、巷で嘆かれる子ども一般の学力低下でなく、創意工夫が要求される仕事につく者の学力低下、つまりエリート教育の失敗です。割とマニュアルに安んじることが許されない、政財界のイノベーション(革新)を担う人材の不足です。
いわゆる「体温の高い」人間が少なくなったことが背景にあります。9・11(米同時テロ)の後、議論を私に持ち掛けて来たのは帰国学生ばかり。生粋の日本人には生活保守主義が目立ち、人類の将来といった等身大を超えた領域に関心を持つ若者があまりにも少ない。教育の故障がそこにあります。
その意味で総合学習の機能が大切ですが、それを担える教師が不足する以上、文科省による一時的な店仕舞いも仕方ないでしょう。他の先進国に比べ計算能力も識字率も生活態度も優れた労働者の多い日本。昨今の学力低下論は的外れです。

やっぱりエリート教育ですか…
わからないわけじゃない。現実的で効率的なのかもしれない。
でも、どうしても“一握りとその他大勢”のようなありかたにみえてしまいます。
それは、私にこそ学力が絶対のモンサシという偏見があるからなのかは、問うてはみたつもりだけれど。

仕事は糧と割切り、趣味や消費での自己実現を図る生き方がもっと評価されていい。
世の中は創意工夫を要する高度な仕事ばかりじゃない。仕事での自己実現やそのための学力を迫る教育は、大量の失意と落胆を生みます。

わかるんです。だけど

教育による序列化は不可欠ですが、三つ条件がある。
まず、失敗してもハンディを負わずにやり直せること。特に親の失敗が子どもを不利にしないことが重要です。
第二に、敗者が喰うに困ったり尊厳を奪われてはいけない。敗者が腐らずにいられる仕組が治安上も重要です。
第三に、競争の多元性。学力一般という発想でなく、分野ごとに異なる序列化が必要です。

こんなの、できるでしょか。

父母相手の講演会でこうしたことを話すと肯定的に受け止められます。薄々分かっているんですよ。創意工夫の必要な仕事に就かない子どもの学力を底上げしても、幸せになれるはずがないと。楽しい人生を送る能力のほうがずっと重要です。

きっと手強いです(笑)
結局、塾が繁盛だったりして、ますます低年齢での競争を強いることになるのじゃないでしょうか。
その競争にのることのできない家庭も、もちろんありましょうけれども。
仕事だけじゃないいろんなことで、これからはどう降りていくかを考えたり学んだりしなければいけないんじゃないか
というのは、私もそう思います。
でも、義務教育においても格差があってあたりまえというなかで学んだ子どもが探した答えに
私は頷くことができない気がする。うまく言えないし抽象的ですけど…
 

ゆとり教育が誤っていたってという論拠はたかが学力じゃないか。
そんなもの平均値を上げる意味ないんだから、エリート教育に力を入れ、いまのゆとり教育は継続しろよと思う。

と書いてらしたひともいました。
「たかが学力」とされてますから、知識の詰め込みではなく教養を、みたいな意味かもしれませんけれど
公立の学校にそんな余裕はないでしょうね。それがだめ、でしょうか…
学力については、平均が低下したことよりも、クラスのなかでできるできないの差が
大きくなってしまったことのほうが問題だと私は思っています。
授業だって先生方はやりにくいでしょうし、つまんないと感じる子どもも増えるでしょうもの。
教育って、いきなり「将来の国づくりの基礎」とかでなくてもっとローカルなところを考えるほうがよくないですか。
だから私は、エリート教育が必要と思えないのかもしれないです。
 

(中央教育審議会における有識者からのヒヤリングの概要(平成15年1月29日)
また、画一化は全体の底上げには貢献したが、落ちこぼれの問題、コンプレックスの問題とともに、エリート教育ができないことも弊害として挙げられる。「大競争」はいい言葉とは思わないが、国際競争時代にあってエリートは必要。しかし、日本のエリート層は、薄くて弱い。最近は全体のレベルも下がったようで心配。各学校に自主性を持たせ、文科省のコントロールを弱めることが必要。種類によって学校をエンカレッジする方向にできないか。

韓国小中高生5%:40万人に「エリート教育」実施へ(毎日新聞 2004.12.22)
教育人的資源部は平準化制度を維持しながらエリート教育を補完するため2010年まで全小中高生の5%にあたる40万人に「エリート教育」を実施することにした。
総合対策によれば、特殊目的高校(外国語や科学など特殊科目を重点的に学ぶ高校)、英才学校、英才学級、英才教育院など英才教育機関で小中高生全体(800万人)の1%(8万人)を対象に英才教育を、普通学校で水準別移動授業、集中履修課程、AP(大学科目先行履修)制などを通じ4%(32万人)を相手にエリート教育を施行することになる。
早期進級および早期卒業制度を活性化し小学校から優秀な児童は用意に飛び級などが可能になるようにし、英才教育から疎外されやすい階層の生徒を探し英才教育に参加させる「リーチアウト(Reach Out)」プログラムも整備する予定だ。(朝鮮日報

日本でも、道徳教育が重視される、
もっと言えば通知表に“愛国心についての評価欄”があるような状況のなかで、
そのうちエリート教育が実施されるのでしょうか。ある程度以上の能力をもつ子どもがいて
十分に伸ばしてやれないのはその子どもにとって不幸で社会にとっても損失であるとして
その解消にどのようなメニューを用意できますか。公費留学ですか、飛び級ですか、習熟度別指導ですか??
ふう。それも、いまのような中途半端では足りないのでしょうね。
 
詰め込みも過剰な競争も「やだ!!」です。
総合的学習については、先生方はたいへんでしょうから取り組みに差がでることへの不満はわかりますし
評価もむずかしいかもしれませんけれども、うまくいけば魅力あるのじゃないかなと思っています。
それでも「エリート養成とセットであってこそ」なら、ゆとり教育にもちがうと言いたいのだけど…
じゃあどーするよ、ですか。うう、また書くかな??
 
おまけデス。

森前首相、ゆとり教育見直しに異論・自作絵本を紹介
日本の子どもの学力の順位が低下した経済協力開発機構OECD)の調査を念頭に「外の雑音に右往左往したらみっともない」と、学力偏重の見直し論議を批判。ニッポン放送の大株主に躍り出たライブドアの株式買い集めにも触れ「金さえあればなんでもできるというのは教育の成果なのか」と疑問を呈した。

「みっともない」て、説得力なさすぎだし××