中公審 水俣病問題専門委員会 その3

 
だんだんムナしくなってきたけど。
第5回は「玉虫色」と「ボーダーライン」と「和解救済上の水俣病」と「マグロ」です。ぶー
 
第5回中央公審対策審議会環境保健部会 水俣病問題専門委員会(1991.9.2)

もう一つの見方としては、損害賠償の責任ということを裁判所は考えてないのだ。つまり、これは損害賠償ではないのだ、だから、損害賠償でない以上は、損害賠償を前提とした補償協定流の救済ということにはならないのであって、それは当然低くなって当たり前だ、しかし、その代わり、責任が明確に存在するかどうかということは問わないわけだから、救済範囲の対象者は広がるということなので、言ってみれば当たり前のことを言っている。自然の成り行きであるという言い方をしているともとれるわけです。先ほど事務局が説明されましたように、もし裁判所が、認定要件を満たしていない者であっても医学的に水俣病なのだと考えているとしますと、損害賠償ではないと裁判所が考えてくれているというところが怪しくなってくるわけです。
しかし、あくまでも公健法上の水俣病というのが、補償協定で給付を受けりことのできる水俣病であるから、そこまでは損害賠償の責任を想定した議論であって、それから後のところは関係ないのだ。だから、医学的に水俣病であるということを裁判所が余り強く意識していない、それに固執しないというふうに読みますと、後の方の考え方になるのですが、ここは実のところ、本当によく分かりません。あるいは、もし裁判官が非常に優秀な人であれば、そこはあえて玉虫色にしておいて、原告は原告側のとり方があるだろう、被害は被害側のとり方があるだろうと、ぼかしていると見ることもできるような気がします。(浅野委員 8ページ)

この新聞の論調を見てみますと、私の受ける印象としては、国が和解の席に着かない、頭から拒否しているのがけしからん、そういう論調が強いような気がするのです。
仮に国が和解に応じるとして、その結果、従来どおりの金額をチッソなり県なりが給付しなければいけないというふうには必ずしも読めないと思うのです。したがって、症状の扱い者については、これまでよりはかなり少ない補償しか支払われないという結果になっても、それは別におかしくないだろう、そういう考えも受け取れるように思います。
国民感情あるいは世論のようなものを考えてみると、国の一つの方針としても、頭から拒否するよりは、むしろ金額を従来よりはずっと少なく支払って、それが片がつくのであれば、なおかつ、和解の場で国の責任が必ずしもあからさまにはっきりとは認定されない、玉虫色で片づくということであれば、国民からも納得されやすいのではないかという感じがします。補償協定とか、いろいろな問題がありますから、はっきり水俣病と認めて、しかし軽度だから補償は非常に少なくていいという論理が簡単にとれるかどうかは問題ですけれども、和解の場合には、国の責任をはっきりうたわない道もあるだろうと思いますから、そのあたりはそれこそ見舞金とか、いろいろな形がとれるはずです。もう少し症状に応じて金額がかなり少なくなるというような方向を目指して、しかし、和解の席には着くというのも一つのかなり現実的な道ではないかという気もいたします。個人的な感想です。(植村委員 10ページ)

本当のところ、和解が成立しそうなムードの論調が出ますと、認定申請者が増えてくるのです。中途半端な原告だけを相手にしますと、かえって非常に数の多い未解決者という層が発生する可能性があります。私が今感じているのは、3年なら3年、5年なら5年のうちに、もうこれ以上出ないというボーダーライン層をきちっと確定する作業を行政施策の中に入れておいて、確定した段階で、見舞金なり、今言われた……。これは全く行政施策だけで全く部10年後解決するとは残念ながら私は思わない。何らかの形の決着をみるはずでありますから、そういう意味では、ほぼ確定できた、これ以上申請もしない、裁判も起こらないという段階を早く行政的に突き詰めたら次の対策がとりやすい。そうすると、当然、私がこの間申し上げた、汚染地域指定解除という問題と連動してそれが可能で、その段階で考えてもいいのではないかと私自身は思うのです。(井形委員長 11ページ)

四肢の感覚障害等によって水俣病と認める判決が幾つか示されているということですが、それをそのまま踏まえてしまいますと、また結論が変わってしまいますので、どこかをずらすということであれば、多数の訴訟がまだ係属中で、その判決の方向が固まっていないので、まだそういった判決だけを材料にして制度を構築するには十分な根拠とまでなってないのではなかろうか、そのような形で表現してみたものでございます。
次に、このような条件にある場合、本来であれば、症状の原因究明を行った上で、その結論を踏まえた制度的取扱いを決めるべきなのですが、水俣病の特殊な条件として、発生当初の調査が十分行われてないなどの理由で、今後その解明を図ることはなかなか難しいという説明でございます。(事務局 22ページ)

2ページの一番下に「数年以上を経て初めて何らかの症状が出現することは、中毒学的には考えにくい」とありますが、ここまで言い切ってよいか、反対論はないのかという質問が来ております。このあたりの表現をどういうふうにしますか。実際、今後とも発症する可能性があるということにしてしまうと、年がたてば高齢者は全部水俣病になっていきますし、裁判などではこういう主張をしておるわけですが、これも議論の対象になるかと思います。(事務局 24ページ)

それから、先ほど議論になった「和解救済上の水俣病」と「公健法上の水俣病」の話も、実は、委員の先生方のところには既に全国連から流れてきていると思うのですが、そこでも、要するに名前だけの問題ではないかという感じがするのです。我々の立場としては、当然のことながら、「和解救済上の水俣病」の「水俣病」というのを避けて通れれば問題が解決するような気がするのです。だから、その辺は名前を考えればいいのではないか。内容は同じだと思います。(加藤委員 29ページ)

実情は、水俣病でない人を水俣病としたケースは多いんです。元来そういうものなんです。だから、チッソが本気を出して裁判を起こしたら負けるケースも多い。本来二つに分けるというのは、入学試験と同じで、つながっているものを分けるわけですから、どこかに……。私たちが主張しているのは、③というのは、可能性のある者は全部含むということでやってきております。ただ、かつて大石長官が、何でもかんでも可能性のある者を拾ったわけではないという答弁をしているのです。それは蓋然生50%という言い方で、含みを少し残した発言をして、それがまだひとり歩きしているんです。(井形委員長 34ページ)