中国ですね…

反日デモは「愛国主義・反日教育の成果」文科相が批判(朝日新聞 2005.04.18)
中山文部科学相は18日、都内で講演し、中国の反日デモに関連して「『愛国無罪』といえば何でも許されるような愛国主義反日教育の成果が今まさに出ている。天安門事件以降、国内の不満を外に向けるためにそういう教育をしてきた成果だ」と中国の教育を批判した。

愛国の名の下に暴力行為を正当化するのが間違っているのは当然でしょうけれども、
それをなんとも無邪気そうに叫んじゃってることのほうが私にはショックでした。
やっぱり教育、なんでしょか。でもそれだけで、これほど他者を見失うとは思えないのですけれども。
国内事情が違うってことでしょうか…
 
読んでる途中(ぜんぜん進まない××)の佐藤学氏の本で
「日本の教育改革が推進する“国際化”とは“ナショナリズムの拡張”である」みたいなのがあって
具体的によくわからないでいるのですが、デモ参加者にすれば「そのとおり」かもしれないと思いました。
これは佐藤氏が95年に「戦後50年と教育学」のテーマで学会シンポジウムで話したものですけれども
それから10年、ますますこじれているということを、中国の教育だけの問題にはできないと思います。
 
経済熱のいまを「他国を市場と捉えるだけの国際化という名の進出」と簡単に否定するつもりはありませんけれども
それだけでない関係を築く可能性を探すことはできないでしょうか…
教科書問題について、すべてを「中国からみれば」で決められるものではないというのはそうなのでしょう。
共通の歴史認識をもつなんてできないこと、かもですけれど、「一億総ざんげ」とか「死んだら仏様」では
「うちマターで♪」なオトナ語の謎みたいですよ。
国内でも違憲というひともいるのに、他国に「理解しろ」というほうが無理でしょうもの。
このような政治家の発言1つひとつで相手を軽んじている印象を与えてきた結果の政治冷なのだと思うのです。
「理解しない相手がわるい」では、いつまでたってもおわびの演説が必要になってしまう。
「ずっと謝り続けなければならないのか」と嘆くまえに
「理解してもらうのになにが足りないか」を考えたほうがいいのじゃないでしょか。
自身の足りなさを省みるのを自虐的とは言わないですよ。そこに利はあるのですし。
 

「おわびと反省」の歴史認識、首相演説で表明へ(読売新聞 2005.4.22)
日本の首相が、主要国際会議の演説で歴史認識に言及するのは異例。今回の小泉首相の演説内容は、1995年の村山首相談話の表現をそのまま踏襲したもので、「我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」と過去の歴史を率直に認める。
その上で、反省とおわびを表明し、「経済大国になっても軍事大国にはならず、いかなる問題も武力によらず平和的に解決するとの立場を堅持している」として、戦後日本の平和国家としての歩みをアピールする。

それでも靖国参拝は続けるのかな??
おわびの“演説”したらもう大丈夫、なのかな。
でも、言ってることとやってることが違う、かもだし。それこそ“演説”は繰り返してきたのだし。
改憲も議論されてるなかで、ますますむずかしくならないといいですのけど…
 

「活字は民主主義の根底」超党派議員がシンポジウム(読売新聞 2005.4.11)
同振興法案は、国民の活字離れを深刻に受け止め、総合的な施策を推進しようというもの。文字・活字文化の振興、推進は国や地方自治体の責務と明記し、利用しやすい図書館づくりなど環境整備を求めている。活字議連は、今国会中の成立を目指している。

活字文化、書き言葉が民主主義の根底だ。
物を読まない、読んで考えない国民はやがてファシズムに流される(東亜大学山崎正和氏)
てスゴいですね。でも具体的になにするかしらん。小学校の図書室、ぼろぼろですってば。
 

中山文科相:ゆとり教育は「反省すべき」と中学生に謝罪(毎日新聞 2005.4.22)
中山成彬文部科学相は21日、水戸市茨城大学付属中学校での「スクールミーティング」で、ゆとり教育について「授業時間を減らしたことは反省すべきだと思う」などと中学生に謝罪した。

私は、もうすこし考えてみたいです…
ただ、これでは現場の先生方はやりきれないと思うのですよ。