オレ様化する子どもたち

 
オレ様化する子どもたち ISBN:4121501713

読みました。著者はプロ教師の会代表、て色メガネかけると
学校で上下関係てゆーかパターナリズムが通じなくなってやりにくいったらありゃしない、みたいな??(笑)
オレ様化ってうまいデス。
自身を客観視できていないことをいうなら
自衛隊のいるところが非戦闘地域」とか「一億総ざんげしたし参拝のなにが悪い」もそれっぽいです。
「夜間救急外来をコンビニと間違えてる」のも、そうなのかな…
 
社会で生活するのに共有しなければいけない共同体的な知恵はあると私も思う。
消えてしまった共同体的な要素をカバーするのにネットワーク的なものが立ち上がってきているのが今なのかも。
ネットワークから、こぼれてしまう者は多かったりでしょうけれども。
そんななかで教師は、ある種ドライに「プロ」を標榜して向き合うしかないってことでしょうか。
どちらにも割り切りが必要だというのが、現場での現実的な答えなのでしょうか。むずかしいな…
「そこに依存してきたから」などと非難するつもりはありませんけれど、これほど
「社会化」「共同体的な個」を強調しなければいけないのかな。
たしかに「子どもは変わった」のだとしても、これほど「共同体的規範」がなければ教えられないものなのか
とギモンにも思います。これは私に、まだ共同体的規範が残っているということかもしれないですね。
他人のモノサシなど「かんけーねー」では教わったり学んだりできないというのは、そうだと思います。
ひとはひとから学ぶしかない。1人で、というのはできないことですもの。
 

私たちは、生活のすみからすみまでお金が入り込んでいる生活を、初めて経験している。朝から夜まで「情報メディア」から情報が入ってくる生活も初めてである。お金がお金を生み出す経済の運動のなかに完全にまきこまれている。子どもたちが早くから「自立」(一人前)の感覚を身につけるのも、そういう経済のサイクルに入り込み、「消費主体」としての確信をもつからであろう。子どもたちは今や経済システムから直接メッセージを受け取っている(教育されている)。学校が「近代」を教えようとして「生活主体」や「労働主体」としての自立を説くまえに、すでに子どもたちは立派な「消費主体」としての自己を確立している。すでに経済的な主体であるのに、学校に入って、教育の「客体」にされることは、子どもたちにとっては、まったく不本意なことであろう。

息子も、まちがいなく消費の主体でしょう。
「よーくかんがえよーおかねはだいじだよー♪」好きでよく歌ってました。マズいなあと思うことはあります。
それでも子どもだからと囲い込んでおくこともできないですもん。ぶー
 
入学してからは、とくに医師からは「主体性を」とか「自律的に」と求められてきてもいるし1人前なオレ様です。
「制服いや」「先生の話し長すぎ」「どーして漢字なんか覚えなきゃいけないのっ」「いきたくない」
とか言ってますけど、学校は、どうやらいやなこともガマンしなきゃいけないとこらしいってのはあるみたいです。
いまのところは、なんとなく、でしょうけれども。
「おかーさん困るんだろな」に、私がテキトーに甘えちゃってるときもあります、理不尽ですね(爆)
高校生にもなれば、そんなわけにもいかないかもですけど。
 
おもしろいと思ったのは等価交換。鋼の錬金術師だ(おバカ)

市民社会的な子ども」の「個」の利害に一元化されない頃の学校には、成績の順番はあったがほかにも運動のすぐれている者や、掃除をよくやる者や面倒見のいい者やクラスの仕事を率先してやる者や、ただぐうたらしている者などいろいろな人間がそれぞれに存在していた。その頃は、お互いが必ずしも「等価交換」をする必要がなかった。勉強はやってもできないが掃除や仕事に身を入れてやる子がいて、そういう子もそれぞれに美しかった。「いじめ」が極端になっていった時期があり、進歩的で良心的な評論家やコメンテイターたちが口をそろえて日本的な「集団による同調圧力」なるものをその理由とした。つまり、共同体的な旧い集団主義が日本人にはあって、集団に合わせない者をいじめたり、はじきだしたりするという。まだ、市民社会的な新しい倫理観が確立していないからこうなるのだという。これもまた理屈としては成り立とう。だが、長いこと学校にいて子ども(若者)を眺めてきた教師の目からはどうしても納得できない。

バラバラな「個」が集まったクラスのなかで
コミュニケーションにおいて等価交換の要求に応じられない「個」がいじめられる、だそうです。
うう、等価交換の成り立つ商取引的な感覚にもとづいて行動するってシビアですねえ。
で、席を譲らなかった若者、こゆうのもそうなのかなって。
 
「私はこれだけのことをしたのに××」とか思ってると、くるしいだけだったりってある。
等価交換なんてできないし、しようと思わないほうがいいんじゃないって気がするけれど。
等価交換できれば正当というわけではないと、知ってるのがオトナってことですか。
イマドキ「等価交換できなくていい」だと「自己満足ぢゃん」て言われちゃうかな。
でもジコマンって言われると、すっごく気にするのはどうしてなんだろ。自己満足、じこまんぞく。うー
等価交換しないと確かめられないのを「ひ弱い」というのなら、そうかもしれない。
だからってほかの方法を示してやることもできないなら、「新しい子ども」には
「社会化」や、「共同体的な個」を育てるためのある程度の「管理」教育が必要、ですか…
 
 
読んだひとたくさんいるみたい。

教育内容についても消費社会的感覚が我々を蝕んでいる。「一日○時間勉強しないと大学には受からない」「このプリントをやれば○○点は取れる」「赤点を取らないように頑張ろう」こうしたコトバが高校の教育現場には満ちあふれているわけであるが、これらは、教育の「等価交換」を意味する「消費社会」のサインである。「時間」と引き換えの「成果」(○時間の勉強)、「努力」と引き換えの「点数」(プリントをやれば点数UP)、「最低限の努力」と引き換えの「進級」(赤点)。ある意味こうした迎合的なコトバの羅列が、消費主体の子どもの自己を温存し、子どもが成長する契機を奪っていることになっているとも言える。
挑発的で実践的な教育論(フルタルフ文化堂)より

「現場の実感からしても、十分納得できる」なんですね。
 

つまり、学校が「規則」を通じて教えているのは、「学校には規則があり、教師たちはその遵守を子供たちに要求するが、その規則の起源を教師たちは言うことができない」という(人類学的=類的スパンにおいては合理的なのだが)個人的=短期的スパンを取るとまったく意味不明の事況に子どもたちをなじませるためなのである。
この「ぜんぜんはなしがみえねーよ」的事況を混乱のうちに通過することによってしか子供は大人になることができない。
しかし、今の子供たちは、それに耐えることを拒絶している。
オレ様化する子どもたち(内田樹の研究室)より

もういやんなるな、どーしよ。
 
 
ハリエンジュで山が白い。
下を歩くとふわふわ甘くにおう。好きな花です。
見上げるとかならずクマバチ。こわくないけどデカいです。
足元にはノイバラが咲く。うつくしい季節でございますね。