「平等」をなぜ金で買わねばならないのか

 
朝日新聞(2005.7.19)より。

「自立を支援する」というこの法案、名前を見る限り異論はなさそうだが、しかし、多くの障害者が、「自立支援どころか自立阻害法である」と反対の声をあげている。勇平も、電動車いすに乗ってのデモ行進や国会傍聴、学習会に忙しい。
「デモ行進した感想はどう?」
「声届いてんスかね。はっきり言ってだれも聞いてないんじゃないかってむなしくなった」
私も以前は聞いていなかった一人だ。健常者にとって、福祉とは、何より「負担」のことであり、だから、この不景気に「なにが福祉か」とつい思う。
一体、この法案の何が問題なのか。一番の問題は、財政難から「利用料の原則1割負担」が導入されること。低所得者の減免措置はあるが、原則的に介護にかかる金を障害者が負担せねばならない。「それってトイレへ行くにも、かゆいところをかくにも金をとられるってこと。結局『生きるな』って言ってるようなものじゃない」
障害があってもフツウに生きていける社会。それがノーマライゼーションの理念なのに、その「平等」をなぜ金で買わねばならないのか。結局のところ、自分が当事者になったとき、初めて思い知る、日本の福祉の冷たさを、なのである。(渡辺一史氏)

 

この家は、確かに「戦場」だった。しかし、それは鹿野が病気と闘っているから、というだけではないと思う。
確かに病気とは闘っている。在宅医療・福祉の制度拡充を求めて、闘ってもいる。
しかし、何より鹿野が闘っているのは、マイナスカードの多すぎる人生を、あくまで主体的に能動的に生ききろうとする果てなき闘いであるのだと私は思った。
鹿野は二十四時間、他人の介助なしには生きてはいけない。さらにここでは「IN-OUT表」「睡眠リズム表」などにより、食べたものの量、飲んだものの量、尿の排泄量、睡眠時間に至るまで、すべての欲求を鹿野は管理されている。プライベートはないに等しいし、ここでは、恋さえも隠せない。
鹿野に秘密はほとんど存在しないのである。
にもかかわらず、ここが鹿野の「家」だとしたら、それは結局のところ「この家の主人は私である」という鹿野の強烈な自己中心性に負っている。もしそれが崩れたとすれば「二十四時間他人に介助されるだけの」「すべての欲求を管理される」「プライバシーゼロの」ただなされるがままの受身的な存在となってしまう。
研修、秘書、論文、自伝……。それらはすべて鹿野独特のユニークな言い換えに他ならないが、そうやって鹿野は「見えない圧迫」と必死で闘っているのでないか。
 
『こんな夜更けにバナナかよ ISBN:4894532476