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ちょっとザツな記事ですが、あえて。

病名を変更したい(2005.5.15 読売新聞)
 
横浜市総合リハビリテーションセンター副センター長(児童精神科医)の清水康夫さんは「自閉症は病名を変えた方がいいと考える医師は少なくない。しかし、変更するにしても的確なものが見つからないのが現状」と指摘する。
同協会副会長の氏田照子さんは「病名変更よりも、まずは自閉症を正しく理解してもらうことが大切」としながらも、「病名のために理解が進まないという意見もあり、今後、議論を深めたい」と話す。
一方、小児患者も多い1型糖尿病でも、病名をめぐる議論が起きている。生活習慣とは関係がなく、膵臓インスリンが作られなくなるために発症するが、偏食など子育ての問題と誤解されやすいからだ。

自閉症については、変更したほうがいいのではないかと私は思っています。
「自閉」という語が、ぜんぜん関係のないところで使われすぎてると思うからです。
「自閉的」「自閉傾向」、ひどいときは「自閉症的」(自閉隊にはあきれましたが)みたいに。
ネガティブな意味合いで普段使われる語によって、理解を求める以前にイメージが染み付いてしまう気がします。
そういうのから、ひとはけっこう不自由ですし、変更すること自体が1つのアピールになりますし。
 
「自閉症」の名称を考える(つぼみの会)

自閉症の名称を考える(やまびこ会)

精神薄弱という名称が知的障害に変わっても何も変わらないのはこのためである。つまり、すでに社会の中で、そして精神医学の中で分類作業が終わっているからである。同じように「自閉症」という言葉が違う言葉に変わっても何も変わらない。なぜなら自閉症という概念で分類作業が済んでしまっているからである。その特殊性が確定しているからである。それは社会のまなざしの位置を決定している。
(てらん広場 林茂雄氏) http://www5d.biglobe.ne.jp/~yamabiko/meisyo6.htm

先日、久しぶりに都内の大型書店に行き、自閉症の本を探していると、書棚に『自閉症』と大きくはっきりと書かれてありました。数年前には考えられなかったことです。『自閉症』という名称も市民権(?)を得つつあるのかもしれません。
もぐらたたきのように繰り返されるマスコミの誤解との戦い、若い母親達の涙、兄弟児達が受ける誤解や差別、どんな名称に変わっても周囲の理解、社会の制度が変わらなければ同じ事なのかもしれませんが、自閉症児(者)を抱える家族の生活は過酷です。無用な戦いはしたくない、と思うのは私だけでしょうか?
(横浜やまびこ会 三好氏) http://www5d.biglobe.ne.jp/~yamabiko/meisyo8.htm

 
 

村瀬流にいえば、長い歴史時間をかけて培われてきた共同体的な認識世界(範の世界)に子どもが後から遅れて参入するという発達の本質そのものに「おくれ」の契機がはらまれている。だからこそ、精神発達には自然の現象としての「おくれ」がかならず生じる。
これが「生理群」である。まして、そこへさまざまな負荷条件が加われば、いっそう遅れやすくなる。これが「病理群」にほかならないということです。一般には病理群のほうが重いハンディを強いられる頻度が高くなります。病理的な負荷条件は精神発達の足をひっぱるにとどまらず、同時にほかのさまざまな面に対しても負荷となるからです。そのため、てんかんを合併していたり、感覚器官の障害や運動障害を重複していたりする遅滞児が病理群には少なくありません。
人間的精神病理学では、精神障害を一般の精神現象と切り離さず、むしろそこに精神現象の本質を読み解こうとするとくりかえし述べてきましたが、精神遅滞の理解においても、それがあてはまります。
 
このように認識の発達の遅れ、精神遅滞とは、普通の精神発達と異質な現象ではありません。けれどもだからそれでよし、とはいかぬところがあります。人間は社会的な存在として生きているため、その社会での大多数の人々がともにしている認識世界への参入の遅れは、生活上、さまざまな困難をもたらさざるをえないからです。「生活適応に困難」という社会的な判断が、精神遅滞医学的な診断基準に組み込まれていることを思い出してください。この社会的困難ゆえ、この子どもたちのおくれは、生理群のような非病理的な自然の個体差であっても「障害」とみなされるわけです。
 
『「こころ」の本質とは何か ISBN:4480059954

滝川氏は、発達障害は特殊な病理(異常性)が発達に生じる現象ではなく、
人間の理解に本質的にはらまれる「おくれ」とし、精神発達の構造が「認識」と「関係」の二軸からなると考えると
認識のおくれが前面に出るものが精神遅滞、関係のおくれが前面に出るものが自閉症であるとしています。
「そもそも理解(認識)とは、おくれを内在させているもの」は、とても納得できるものでした。
「おくれ」を異常と決めてしまって「おくれ」ない進み方だけを定型と決めることのほうに無理があるのかも。
時間を生きるヒトにとって「おくれ」ることは特別なことでない、あたりまえのことじゃないかなって。
でもだからこそ、子どもの発達において「おくれ」ないことを評価する価値観から、自由になれないのかな…
 
 
名前を変えれば偏見がなくなるとか理解が進むわけではないことはわかります。
精神分裂病統合失調症に変わってどうなのかというのも、ちょっとわからない。
 
疾患名ではありませんが、生活習慣病という呼称は私たちの意識を変えたかもって思いました。
ただ、どこまでを生活習慣病にカテゴライズするかはあいまいで、あちこちでちがってる。
「バランスのよい食習慣で予防しよう」は、いいですよ。つらいのは本人ですし、防げるならそのほうがいいです。
だけど生活習慣病だというのは、改善したほうがいい生活習慣も含めて治療対象になったということでしかないし
病名にそれ以上の意味を求める必要もないことでしょう。
発症につながる傾向のある生活習慣、あるいは健康管理に積極的でないことが褒められたことでないとしても
「自己管理できないんだから病気でも自業自得」みたいなのは、あんまりじゃないですか…
「健康になるために生きる」なんて本末転倒で、できないことでしょ??
病因を、病者に非があるかどうかを問う判断材料にして疾病を区別する視線はこわいってセンスが抜け落ちてて
この記事は気持ちわるいんです。て、自分でも、ずいぶんな過剰反応て思ったりしますけれども。
 
IDDMの子ども。つらいのは、わかります。
でも、病名変更についてはびみょーだな…
 
http://d.hatena.ne.jp/arcturus/20040827