コスト

 

郵政問題より優生問題(猿虎日記)
つまり、「おれたちは「差別」しているのではない、「公平」を求めているだけなんだ」と。自分たちが痛い思いをしているんだから、大手を振って他者に痛い思いをさせることができると。他者に痛みを与えるという罪悪感はなくなり、むしろかえって(障害者という)「加害者」に対する怒り、被害意識をどんどん増大させていくわけです。
ナチスドイツは、障害者は社会的「負担」であるとして「徹底的なコスト計算」を行いました。

優生思想というと「いまここ」から遠くて、煽りっぽいトンデモみたいだけど
それが経済的理由に裏打ちされたもの、もっと言えば、徹底した金勘定にほかならないといえば
そう遠いものじゃなくなる。
平等を、金で買わなければならないのが現実なら、そう遠いところに私たちはいるわけじゃない。

私も以前は聞いていなかった一人だ。健常者にとって、福祉とは、何より「負担」のことであり、だから、この不景気に「なにが福祉か」とつい思う。(渡辺一史氏)
http://d.hatena.ne.jp/arcturus/20050721

「弱者を切り捨てるな」と言うときも、負う「負担」を「コスト計算」しなければならない。
それもあたりまえことであって、だから、「効率的であれ」を、だれも否定できないでしょう??
社会保障費が財政を圧迫している」と言うとき、ちょっと過剰に振れてしまえば
普段は薄っぺらい倫理観のしたに隠されてるものが顔を出すのじゃないかと、自分で怖くなったりします…
 

「生命倫理」の功と罪(市野川容孝)
 
アメリカでは、こうした主張は、さほど問題視されていない、中絶禁止を求めるプロ・ライフ派は別としても障害者団体からも批判する声はない、なぜならADAに見られるようにアメリカは障害者福祉を充実させてきたからだ、こうした主張や出生前診断に過敏に反応するのは日本ぐらいのものだ−そんな説明を私はよく耳にしました。しかし、英米圏のバイオエシックスが提示するこうした「倫理」に疑問をもつのは、何も日本人だけではないことが今でははっきりしています。オーストラリアのP・シンガーという生命倫理学者が、例の「パーソン論」を下敷きにしながら、重い障害をもった新生児の殺害は倫理的に正しいという旨の講演をドイツ、オーストリア、スイスで行おうとしたところ、これらの国々の人びとから猛烈な反対にあって、講演が中止されるという出来事が80年代の末におこっています(詳しくは『みすず』1992年5月号/6月号を参照して下さい)。シンガーの主張がナチズム期の「安楽死」を彷彿させるものだったからです。この出来事については、改めて考えさせられることが一つあります。実はシンガーはユダヤ人で、彼の祖父母のうち3人は強制収容所で死んでおり、自分をナチスと同一視することは最も耐えがたいことだとシンガーは述べています。この点について私は確かにシンガーに同情しますが、しかし同時に、障害者の抹殺というナチズムの暴挙は人種差別の問題と、どこかですれ違っているということも明らかになったように私は思います。だからこそ、ユダヤ人であるシンガーでさえ、自分の主張とナチズムの論理との近さをはっきり認識できなかったと私は思うのです。

 
福祉国家の優生学―スウェーデンの強制不妊手術と日本―(市野川容孝 1999)