新潟水俣病

 

新潟水俣病は今…:絵本「阿賀のお地蔵さん」から/上(毎日新聞 2005.11.28)
 
文子さんの母親は76年、水俣病に認定された。しかし、文子さんは一緒に申請しなかった。当時は水俣病とわかると、結婚や就職に響いた。自分の娘のことを考えると、申請できなかった。その後、申請したが棄却された。同じく棄却された人々が国と昭電を訴えた第2次訴訟の原告に加わった。当時、原告に対して「金目当てのにせ患者」という陰口が多かったため、裁判に出ることは家族にも内証だった。今でも娘、孫には水俣病の話は一切しない。文子さんは玄関で立ち上がる時、隅の棚につかまって言った。「立つと、めまいがするの」と苦しそうだった。
近所の板倉ハツミさん(81)は、この季節が心細い。寒くなると手足のしびれがひどくなり、「冷たい水に手を突っ込んだ状態が続く」からだ。50年近く前の冬、阿賀野川に死んでいるウゴイが浮いて、一面真っ白になった。大喜びで持ってきて食べたのを覚えている。その後、頭がしびれて脳外科に入院した。水俣病だとわかったのは、2度目の入院の時だ。今も、イモの皮をむけば厚くなってしまうし、はしは持てず、拳で握るしかない。ハツミさんも文子さんと同じく、申請したが棄却され、裁判に加わった。陰口をたたかれるため、公判の日には遠回りして集合場所に向った。13年の戦いの末、95年の和解で、認定はされないものの、昭電から260万円の一時金を受け取り、国の医療給付も受けられるようになった。原告以外も幅広く救済されたため、近所の人から「おめさんのおかげだ」と感謝されてうれしかった。
しかし、千唐仁に住む初老の男性は言う。「千唐仁には、本物の患者は2人しかいない」。文子さんやハツミさんら、和解で救済された人は今も「にせ患者」扱いをされてしまう。40年の歴史は病気の苦しみに加えて、集落にひずみを生んでいた。

新潟水俣病は今…:絵本「阿賀のお地蔵さん」から/中(毎日新聞 2005.11.29)
 
95年の和解では、訴訟原告も、裁判に参加しなかった患者も昭電から260万円の一時金を得て、国から医療費ももらえるようになった。この一律の処遇に不満を持つ人もいる。原告だったある男性は「他の人と差をつけて、原告だけ260万円にしてほしかった」と本音を漏らす。裁判を報道するテレビに原告らが映ると集落では「まだやってるの」と冷やかされた。それでも裁判費用を負担し、東京高裁に通い続けた。男性は「(差をつけてほしいと)そんなことを考える自分の心は情けないけれど……」。今も心にわだかまりが残る。
水俣病と認定され、1500万円の補償金をもらった男性の妻(85)は言う。「お金がかかわると面倒。じいちゃんは寺に寄付したりして、陰口を言われんようにしとった」。和解後に260万円を得た人も、大抵はそのことを口にしない。「病院で医療費がただなのをみると、『あの人はもらっているな』と分かるんだけどね」と話す。

新潟水俣病は今…:絵本「阿賀のお地蔵さん」から/下(毎日新聞 2005.11.30)
 
だが、旗野さんは運動に携わった三十数年間、どこかで自分は「施す側だ」と考えていたという。支援するうち、歩行不自由、感覚まひなど、認定されやすい患者像を患者に求めている自分に気付いた。出会った患者は畑を耕し、歌を歌う普通の人間だ。「一言一言に深みがあり、自然と共に豊かに生きる『宝物』だと感じた」と姿勢を正した。
「認定を勝ち取ることだけじゃない。『宝物』を世間に伝えていかなければ」。そう思った時、映画監督の佐藤真さんと出会い、患者の素朴な生活を映すドキュメンタリー映画阿賀に生きる」の製作を裏で支えた。一方、和解はしたが、差別、偏見といった基本的な問題は根強く残っていた。それを克服するには、水俣病に興味のない人にも振り向いてもらう仕掛けが必要と思い、患者のCD、ビデオなどを製作してきた。