「一言で言えば工業立国だよ、と」

 
ノーモア水俣病:50年の証言(毎日新聞連載中)より
 

ノーモア水俣病:50年の証言/1 公式確認 (2006.1.31)
 
「父はネコ実験の後、1年間工場の排水を止め、禁漁にすべきだと県の上司に提言したが取り合われなかった。『本当は水俣病は数年でけりがついていた』と死ぬ間際まで悔やんでいました」。伊藤さんの長男隆一郎さん(61)は述懐する。「水質汚濁防止法大気汚染防止法ができまして、今後、企業が国民の健康を重視するという姿勢ができたわけですが、たくさんの人が病気になって死んでいった悲劇の上にたったもので残念で……。我々の住む環境がいつまでも美しいように努力せんといかんと思います」。テープは後世に訴えている。

ノーモア水俣病:50年の証言/2 チッソ(2006.2.7)
 
「会社が出来たおかげで電気がつき、ランプ掃除をしなくてよくなった」「文芸講演会で(文芸評論家の)小林秀雄氏の話が聞けるのも工場あってのこと」。水俣病公式確認の56年当時の水俣工場新聞(同社水俣工場発行)に住民代表の賛辞が並ぶ。同紙によると、57年春中学卒業予定の就職希望者614人のうち251人がチッソを志望。夏のボーナス時には支給から1週間で市中金融機関の預金残高は約4000万円アップ。商店もうるおった。
文化、教育面での影響も大きく、元社員の江口和伸さん(69)は「野球も県内で最も早く普及した。チッソのスポーツ活動が盛んだったため」と話す。同工場の運動会は時代風刺の仮装大会が人気で街の一大イベントに。小中学校ではチッソ社員の子どもかどうかがクラス分けを左右した。
だが、市長、県議、市議も送り出した強大な企業の負の影響も目立ち、やがて水俣病をもたらした。

ノーモア水俣病:50年の証言/3 原因究明(2006.2.14)
 
工場廃水を巡る行政の対応でも内部のせめぎ合いがあった。57年3月に熊本県が開いた「奇病対策連絡会」。廃水の影響が濃厚として漁業法、食品衛生法による漁獲禁止が検討されたが、結局、「原因不明」として措置は見送られた。当時、県予防課長補佐として会議に出席した富島博さん(74)=熊本市=は「チッソへの影響や漁業補償などを考えた口実と感じた。実施できないことはなかった」と話す。
水産庁も59年、旧厚生省食品衛生調査会が「原因は有機水銀」との答申を出したため旧水質2法による排水規制を旧通産省に申し入れた。しかし、実現したのは公害認定後の69年。当時の水産庁の担当者はのちの裁判で「私が行くといつもほかの省の連中、いやな顔をしまして。『一言で言えば工業立国だよ』と。非常に苦しい立場で頑張った」と証言している。