『水俣病の政治経済学』を読む

 
いえ、私は読んでませんです…*1

深井純一著『水俣病の政治経済学』を読む立命館産業社会論集 2000.9)
 
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<深井>
逆説的な言い方をしますと,情報公開が制度化されていなかったから僕の研究は出来たと思います。熊本県の場合には,手書きで書き込んだ資料が何でもかんでも綴じ込んであったんです。情報公開制度が出来たらきれいに整えられた資料にして「どうぞ皆さん,閲覧希望者はコピー代を払って下さい」となる。これはほとんど役に立たない。新潟県も衛生部長が僕を応援してくれて,彼が在任中に作ったファイルが残っているのを閲覧することが出来た。しかしあまり役に立たない。
役に立つのは,私文書として担当官が手元に残していた物です。それを見せてもらうのは苦労しましたが。情報公開の制度化は要らないとは言わない。しかし,住民運動が行政を追い詰める力関係の中で制度化しないとダメです。つまり,官僚主導で公開される情報は何の役にも立たないことがよく分かります。

<小林>
公式にはこれだけしか出さないというようにコントロールされる,つまり,本質的な情報は現れないような操作がされるということですか?

<深井>
熊本県新潟県も私文書が重要な意味を持ちました。熊本の場合は新潟に比べると官僚の力量が弱かったと思いますが,何でもかんでも残していた。そのあり場所とそれにたどり着くルートさえ見つければ,全部見ることが出来た訳です。信じられないような重要書類が全部残っていた。
なぜこの資料が残されたのかと考えると,僕の推測ですが,熊本の場合は,このまま闇に葬らせる訳にいかないという担当官たちの無念の思いが,そうさせたのだと思います。自分たちが調査をやったり対策を提起したのに,握りつぶされ,データの公表の時,差し替えられるのを見て「こんないい加減な行政ではダメだ」と思って資料を作り,調査結果をまとめ,将来に備えてきたと思います。その気持ちがあったので僕にも協力してくれたと思います。
僕が動き始めた頃は,行政責任の追及を誰も考えていなかった。企業責任の追及が終わっていなかったからです。それで僕は今がチャンスだと思って,行政責任に関する資料を集め始めた訳です。行政責任追及が共通の関心になっていたら,あの資料は闇に葬り去られていたかも知れません。

 
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<深井>
水俣病は熊本で表面化して,9年後に新潟で出る訳ですが,新潟での自治体内部の対応はモデル的に評価出来る面もあったと思うんですが,国の対応をきちんとさせていくという点では力を発揮していない。ただね,熊本県の対応,政府の対応を見ていく時に,こうすべきだという議論はいくらでも出来るけれど,それをしなかった,出来なかった時代背景をつかんでおかないとリアリティを欠くと思うんです。
熊本県については,日本の重化学工業化政策の舞台から外された。その中で焦りがあって,何とか県独自で工業化をなし遂げていこう,優遇されている他の県に取り残されないで,追い付いていこうという焦りがあった。国全体で言えば,水俣病が表面化する時期は,全国に重化学工業化政策を張りめぐらせている時期です。
この時期に,たかが熊本県の,日本で言えば端っこの僻地で,チッソという,戦前は一流企業だったかも知れないが戦後は二流の化学企業が起こした問題,しかも被害者は漁民じゃないか,という考えが国にはあったのではないでしょうか。
同じ時期に,本州製紙KKが江戸川で起こした問題は,被害者が漁民だけれども,発生源が一流企業で,東京湾で起こしました。着々と手が打たれて水質二法が出来た訳です。どれほど効果を持ったかは別として,対応の違いははっきり出ています。
政府は熊本を見殺しにしたことは事実です。
熊本県が保存している資料に,東京への陳情の中に,政府や自民党の連中にどう対応されたか克明な記録があります。「補償問題をまもとに扱うと全国的な前例になる。金銭補償で被害者を救済する方法は取れない」と当時の坂田道太厚相(熊本選出)がはっきり言っていて,明らかに熊本水俣病のケースは目をつぶるしかないと政府は考えたのです。時期的には不運な時期だったという言い方をしていいか分からないですが,対策を取らせることが極めて難しい時期だったと言えるでしょう。

 
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<深井>
国の責任追及をする裁判,企業責任ではなく,行政責任を追及する裁判をやろうと最初に呼びかけたのは僕ですが,初めに組織した原告団で闘えばいいのに,結局,ある段階で弁護団は多分中央からの指示によって政治闘争に切り換えた。中央からの応援を受け入れて,金が欲しいという人を集め,膨大な数の原告を用意した。1人ひとりの被害状況を調査することは不可能になった訳です。政治的に手を打つしかない。
村山さんが総理大臣になったから今のうちだとなだれこんだ。
これほど長い歴史を持っていて,しかも熊本があって新潟がある。国の責任を追及する最も分かりやすいケースなのに,和解になだれこんだことによって,公害行政を前進させ,二度と起こさないために行政上の教訓は何だったのか,どういう仕組みを作るべきかということが,闇に葬られてしまったと僕は思っています。

 
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<深井>
ナマの資料をそのまま残す習慣が公務員にはないんじゃないですか。熊本県ではやりとりを手書きで走り書きしたものも含めて年月日順に整理して,全部穴を開けてこよりで綴じて残した。しかし今はそういう物を残さない。条例が出来たら。

<江川>
通常の事務では,それは任意型の資料の残し方だと思います。

<リム>
深井先生が入手された資料は,行政資料というより担当者が自分で残した個人資料だということになりますか?

<深井>
熊本県の場合は課としての保存文書であって,担当者の個人資料ではない。それはね,多分,担当者の無念の思いがあって,隠蔽は許さないという。きっといつか問題が明らかにされるだろうという思いがあって,ほんとにきれいに残っていました。

 
 

*1:国民の知る権利などについて詳しい田島泰彦上智大学教授(憲法、メディア法)は「消費者団体や環境団体など、行政当局から非公表情報を入手している人々も多く、メディアだけの問題ではない」と警告する。「個人情報保護法人権擁護法案は、露骨に表現規制をするかわりに、メディアや国民の情報入手を食い止めるもの。情報の『出』を封じると大騒ぎになるから、『入り』を封じてしまおうという発想だが、今回の決定もその延長線上にある」 (http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060317/mng_____tokuho__000.shtml)を読んでて思い出したのでちょこっとメモです。