代行

 
ニュース読むのがやっとで書かないつもりだったのですけれども。
 

尊厳死協会「延命治療中止、代わりに家族が決定」(産経新聞 2006.4.15)

見解は「他人による意思決定は許されない」と従来の原則をあらためて明記した上で、本人の意思が書面などで残されていない場合の対応として(1)意思を推定する十分な資料に基づく司法判断(2)医療機関の倫理委員会などで決定(3)家族、親族、友人による合議(4)配偶者、子供、両親、兄弟姉妹など意思決定を代行できる順位を規定―などの選択肢を提示。(4)の家族らによる意思決定代行が妥当と結論付けた。

 
日本尊厳死協会HPより

http://www.songenshi-kyokai.com/
日本尊厳死協会は、さまざまな活動を通じて皆様とともに終末期医療のあり方について考え、「死」についての権利と「自己決定権の確立」をめざして活動を推進しております。

http://www.songenshi-kyokai.com/dwd01.htm
安楽死とは違います
"Dying with dignity" is different from "Euthanasia".
尊厳死と混同しがちですが、安楽死は第三者が苦痛を訴えている患者に同情して、その患者を「死なせる行為」です。それに対して尊厳死は不治かつ末期の患者本人の「死に方」のことで、「死なせる」こと(殺すこと)とは違います。

 
 
すごくドライな言い方をすれば、ですけれど、医学的に明快にラインが引けるのであれば延命のためだけの医療行為を自らの意思で断りたい、それで自身の尊厳を保ちうると考えた患者が選択肢としてもちたいというのは(たとえその考えの底に生命を選別する視線があったとしても)私には一概にだめとは言えません。
なんの用意もしていなければそのときになって本人の意思を確認しようがないのは当然ですから(自らの意思だけで決めるのがどれほどむずかしいだろうとも、最後の最後まで「自分らしくあるべし」みたいなのはずいぶんしんどい話しではあるなあとも思うけれども)人工呼吸器のある国で生きてきた者の老い支度の1つとして、自らの手でリビング・ウイルを書いておく、そしてその意思表示は尊重してほしいというキャンペーンであるかぎりは理解もできます。
それでも、この法律に反映してほしいという要望には危険だと言いたいです。
 
 
原則(としていること)から、あえて逸脱してまでの死への要望はどこから出ているでしょうか。
明確な意思表示が困難になったなら、(家族とはいえ)他者の推定によって死をもたらしてもいいというのと尊厳を自らの意思で保ちたいという協会の理念とでは矛盾してはいないでしょうか。現実的に高齢者は家族に支えられる(介護される)ことによって死を避けえているとしても、客観的にみてその死によって失うのはわずかな時間だけであるとしても、だからといってそれらしいことを言ってたちっくに決めた行為で、そのひとの尊厳を守ったといえるでしょうか。
本人の意思(これさえその確かさを保証できないかもなのに)というよりどころをハズしてまで急ぐ死が、けしてその生を軽んじたのでなく死の尊厳を尊重した結果、といっていいのかどうか私にはわかりません。
 
死については、どのような振る舞いであれ、残される者自身がこうありたい、あるいはそうあってほしいという想いを完全に排除できるものではないでしょうし、それを責めることはできないとも思います。正しかろうとまちがっていようと、家族であればなおさら、その想いは強いだろうとも…
それでも、家族がその意思を「推定して」が、あたりまえになっては危ういと思うのです。
ともに生活しているからこそ言えなかったこともありましょうし、また家族からの愛情という名の支配にもくるしみつづけるひとがいることを思えば、正確に「代行」できると考えるのは安易すぎるのではないでしょうか。
 
 

大半が外科部長らに理解 呼吸器外しで電話相次ぐ(共同 2006.3.30)
 
同病院総務課によると、発信元は全国に広がっている。延命治療に疑問を投げかける声が多く、「同じ境遇にいた。家族の気持ちは理解できる」「外科部長はこれからも頑張ってほしい。応援している」といったメッセージも。「事実を隠さず公表しろ」「謝罪せよ」などとする苦言は一部にとどまっているという。

尊厳死:登録急増、昨年比2.7倍 1日100人超−−富山・射水の呼吸器外し受け(毎日新聞 2006.4.14)
 
射水市民病院の問題が表面化した3月25日以降、昨年は1日平均88件だった発送依頼が連日300件以上に急増。新規登録も今月に入り1日平均105人で、昨年の39人を上回っている。

 
高齢者新医療制度創設の審議では「高齢者にふさわしいQOLが確保されるべき」などとされているそうですが、「医療費の適正化」が掲げられるなかで「ふさわしいQOL」の意味するものはなんだろう、と思う…
それでも自身の死を、「選べない」とためらわないでいいほどクリアにイメージできるひとが、リビング・ウイルを用意しておくことを習慣として定着していくのがわるいというつもりはないです。きれいごと言うな、というのもわかります。
それでも、社会のムードというか価値観が制度に受ける影響はとても大きいことを思うと、明確な意思表示ができなければ生きるに値しない、ように見えかねないやり方では反対です。