六月を奇麗な風の吹くことよ

 

水俣病誌

水俣病誌


すこしずつ読んでるのだけど。

公害というごまかしの名の毒殺、傷害致死、胎児性水俣病の子供を作り出した罪と罰はないのか。誰が背負うのか。日本という所は、あまりにも大きな無法ぶりは見えないのか。警察、検察庁、裁判所の中には世を嘆く人はいないのか。いても声にならないのか。声を出せないのか。
私は、世の中の正義は金で買えるものではないと思う。だが現実には、金で買える正義があるのだから空恐ろしい。八月の末に、私は、二度目の新潟水俣病の患者さんを訪問し、判決後の気持ちを聞いた。郊外製版に光明の道程を示したといわれ、企業に厳しい判決だったといわれた名判決が、必ずしも患者の実際的な生活に即した糧になっていないことを聞き、私は同情した。公害防止に先駆をなしたという大義名分、公害企業に勝ったという大義名分の裏には、患者の苦しみが続くことを知り、私は慰めの言葉もなかった。
川本裁判供述書(1973.11.20)より

大義名分」がなければ支持が得られない続けられない、そゆうとこはあるのだと思う。
それぞれの事情や生活や家族を抱えて集団訴訟で、国や企業を相手に闘いぬくことは並大抵の覚悟ではできないだろうな…
 
このところ気になってるのは「再発防止につながらない」と裁判を否定的にいうこと。
再発防止を願わない当事者はいないと思う。裁判では再発防止に役立たないというのは正しいのかもしれない。それでも、社会的な利益にならない、みたいな正義を押し付けてしまうのもちがうんじゃないかって思う。