鉄格子

arcturus2006-06-16

 
日記には、たびたび、針のムシロに残したミヤ子さんと2人の子どもへの想いと、支援者への感謝と、高校生や大学生という「若人」に水俣病を語ることの面映さや責任感が書かれてる。
そゆう義理人情や誠実さを、チッソに期待できないことなんてわかってたはずなのに、それどもどうして直接交渉だったんだろな。行政や第三者機関への徹底した不信はよくわかる、でもチッソだって変わらないのに。
結果的にみて、補償協定を引き出す力になった座り込みはまちがっていなかった。だけど、顔無しみたいなチッソが相手の、その日その日ぜんぜん先の見えないそのうえ孤立無援の闘いに、こだわったのはどうしてなのかな。おそろしく精力的で多忙で、毎日のように「疲れた」と書いてる…
そうするよりなかった、という想いはわかった。でもやっぱりわからない。
ただ、土臭いやり方を手放さないことが川本さんの祈りのかたちだったのかな、そんな気がした。闘いながら祈るしか生きていけないほどの、くるしみだったのじゃないかって。


チッソ本社4階入口に鉄格子が取り付けられた1972年1月11日の日記。『水俣病誌』より。

雨。AM11時20分ごろ申し入れに行く。文明の結末?を人間の命をつかさどる?鉄で作った格子。現代文明、文化の象徴の鉄が水俣病患者の前にいかにも不恰好な、ぶざまな形の格子で立ちふさがるとは……
まさにチッソにも水俣病患者にも歴史的な日になることは間違いない。しばらくやりとりしてテントに帰る。
今日も多種多様の反応を示した訪問、激励の方が見えられる。志賀寛子さん、森永ヒ素ミルク事件の石川さんは寸暇を割いてこられる。感謝に堪えない。全国公害連絡協議会の幹部の方が来られた。チッソに申し入れに行って、久我(常務)が17日まで回答をする由、たいした期待は持てない。
PM1時過ぎにNHKより妻と病院にTELする。仕事のほうも懐かしい気がする。患者さんの顔を見たいものだ。全国土建自由労組より取材あり、カンパをいただく。PM4時前に東京地評にあいさつ、支援要請に行く。約1時間くらい話し込む。夜は『状況』編集者の方、中川さんと話す。
宮沢さんよりTELあり、石田勝氏の上京を聞く。本日出発。尾上夫妻、西畑氏(みずほ13号車)/石田氏、花山氏、田神義春氏(明星)。
夜遅く佐藤武氏と話す。展望、見通し、基本的考え方について意見交換する。何か恐ろしく巨大、そして形のない幻に闘いを挑んでいるのではないかとさえ錯覚を起こす。やはり今では、目前の現象にすべてをかける以外に抜け出す手立てはないのだろう。とにかく、毎日毎日を支援してくださった方々の支えを命として闘うより他は生きることはできないのだ。

で、6日後の日記には鉄格子まえにしつらえた「患者慰霊の祭壇」に「焼香した」とあるの。すごい…