嘆きは深く、道は遠い

arcturus2006-06-17

 
雨ふり。
水俣病誌』続き。

大阪の中江さんと久しぶりに後藤孝典弁護士の事務所に行く。話を聞いていくうちに、俺の主体性のなさ?みたいなものが痛いほどわかる。自主交渉の闘いも、センターの問題もあまりににもキレイごと過ぎるのかもしれない。
氏は勝つ闘いと政治問題化した、あるいはする闘いをやれと言う。きたない闘いを如何に組んだらよいのか。熊本告発の闘い、考え方を問うとも言う。純粋さを求めることは死しかない。それは他者に対して死の強制になるのか?俺にはわからない。上京される本田先生と話し合ってもらうようにする。
夜は名古屋告発の一本木さんという方が来られ、名古屋行きについて話し合う。とにかく俺の出口は、いつ、どこから、そしてどこにだれと抜けられるのか……悲劇の主人公とも言われた。ひょっとしたら闘いのピエロかもしれぬ。
(日記 1972.8.12)

別の日には「具体的展開を考えた自主交渉を考えろ」「水俣での団結を図れ」「理念を通じた対極的な見地に立った運動を」「孤立化はされるべき」などのアドバイスをされたともあります。それができりゃ苦労せんわい、くらいにも開き直ることはできないで、また別の日には「連日調停派家族を回って、思いは同じはずなのに、それがどこで遮られているのか。金か、心か、義理か、人情か。」と書いてたり…
「いまの申請者は死ぬまで待てばよい(熊本県公害被害者認定審査会会長・三嶋功氏)」に、耐えるか闘うか、どちらもあまりにつらい。私は、べつに川本さんを英雄視ちっくに見てるつもりないです。ちょいナルなとこあったりするのが、おかしかったり。でも、やっぱりすごいひとだなって。
70年代の、チッソと行政だけでない理不尽な差別と、そして自身の葛藤との闘いは、どれほど過酷だったろうと、それだけを思います。終わらない闘いのなかで、絶望の先に、鉄格子の向こうに、川本さんはなにを見たのか見えなかったのか、知りたくて読みました。


土本典昭氏の解説(映画で出会った川本輝夫との三十年)から。

彼のそれまでの行政や制度などの“見えない敵”との闘いに比べ、直接交渉でのチッソの闘いはどんなに自分に納得でき、自己解放もできたことか。映画『水俣一揆』のなかの川本輝夫さんはまさに輝いている。その後も自主交渉、直接交渉への原点回帰が彼の夢、理想であり続けたと思う。

川本さんの、相手とじかに向き合うような闘いかたは次第に許されなくなっていきます。1980年にも公務執行妨害で逮捕されてます××

未認定患者運動は国や県との闘いが主要な場になる。官僚たちが立ちふさがった。川本さんは締め付けられた条件のなかで浮き上がりがちだった。焦燥のあまり苛立って机を叩くといった行動も目立ち始めた。テレビを通じ暴力派患者のイメージがひとり歩きした。支援者の古参株の人からも面と向かって「患者ならもっと患者らしくせんば!」と当てこすられた。彼は「じゃあ俺は父親の仏壇に手を合わせて大人しくしていればよいのか」と憮然としていたという。

 
政治決着の後も水俣病現代の会を立ち上げて残された未認定患者問題に関わり続け、1998年には熊本県と交渉されてます。ほんとは国賠訴訟やりたかったそうだけど。ふー
関西訴訟について「最高裁で国、県の責任が確定すれば政治解決は吹き飛ぶ」「チッソとの協定のなんの、国、県の責任が確定すれば、重大な事情の変更ちゅうことで破棄すればよかがね」と話し、そのためにも未認定問題を追及する団体として「新しい酒は新しい皮袋に盛らんば」と立ち上げた団体だったそうです。
川本さんは亡くなって、最高裁判決は出ました。政治決着はまだ吹き飛びそうにありません…
 
水俣病誌、たくさんのひとに読まれるといいな。