「われわれは深く底抜けに退屈している」

arcturus2006-08-17

 

「なぜ首相参拝がいけない?」靖国に若者たち(朝日新聞 2006.8.16)
 
午前7時45分。小泉首相が本殿で参拝をしていた時、拝殿前の参道に集まった参拝客の多くは、片手を高く上げた若者たちだった。手にしているのはカメラ付き携帯電話かデジタルカメラだ。

 
これまではそれほど関心もたずにきたし、たぶん行っても行かなくてもどっちでもよかった場所にこれだけのひとが集まる、ちょっとしたムーブメントに乗っかった他愛ないイベントみたいに…
思い出したのは『“癒し”のナショナリズム―草の根保守運動の実証研究』、この本は

普段の生活をしているうえで「日本人とは」という問いに差し迫って答える必要のない人々が、なぜ藤岡氏らの言動に影響され保守的な運動へと向かったか。それほど経済的な不安もなく、平和に暮らしている主婦が、学生が、そして会社員がなぜ「日本人としての誇り」を声高に叫ぶのか。フィールドワークを通じて、草の根運動のリアリティを探ることにより、吉野論文(『文化ナショナリズム社会学』)に欠けている要素――研究対象としての“市民”――を補っていく。

とする上野陽子氏の「つくる会 神奈川県支部・史の会」参加者についての調査(アンケート、インタビュー)と小熊氏の考察、なんだけど、私にはこの記事の「若者たち」とダブるように思えたんです。
 

彼らの思想の無定形ぶりを考えれば、状況次第で天皇賛美を始める可能性もあるとはいえ、いわば彼らの運動は、「民衆の戦争責任」論にたいする「思想的庶民」レベルの反発が、変形したかたちで表れたものといえるかもしれない。
やや皮肉な言い方をすれば、「天皇から自立した民衆のナショナリズム」は、潜在感情としてはすでに形成されたともいえる。それは何よりも、もはや戦前のように天皇や軍事力などというシンボルに頼らずとも、世界有数の生活水準を享受しているという日常感覚によって「日本人の誇り」をもつことが可能になった状況から生まれたものであろう。しかし、まさにそうした生活保守的な「日本人の誇り」は、いったん経済が不況になれば、歴史という別種のシンボルをもとめざるをえない。90年代の経済的失速とともに「つくる会」が台頭した理由の一端はそこにあると思われるが、その場合でも天皇にたいする関心は(いまのところ)低いレベルにとどまっているといえよう。
(第一章)

彼らには核を探したいという志向はあるが、とりあえず掲げるものが「身体感覚」として根づいているわけではない。逆にいえば、とりあえず掲げるものは、何であっても変わりはない。満足の行く結果が得られなければ、次の核を探すことになる。たとえば23歳の「市民運動推進派」メンバーは、赤い羽根共同募金のボランティア活動や、選挙運動の手伝いなどを経て、「史の会」にやってきている。そして前述のように、中核メンバーの1人は、「つくる会教科書は、内容よりも存在自体に意義があると思う。極論すれば、どんな内容であっても問題ない」と述べているのである。
こうした若い世代の参加者たちにとっては、「ゆらぎ」を抱いていない「戦中派」は感覚的に相容れないだけでなく、邪魔な存在でもある。上野の論文には書かれていないことだが、上野と交流した「戦中派」の参加者は、自分の戦争体験として潜水艦に乗り組んでいた時期のことを語った。そのさい、当時の海軍上層部が現場の戦況を理解しない無理な命令を押し付けてきたことや、戦後に米海軍を見学したときに旧日本海軍に比べてはるかに合理的に運営されていることに驚いたことなどを述べたという。
もちろんこの「戦中派」参加者は、ブラジルや台湾など外国との接触を経て、「従来型」の右派団体である日本会議に参加するに至った保守ナショナリストである。しかしそうした人物であっても、戦中の日本や日本軍が理想的な英雄の集まりではなかったことは、経験として知っている。だが、「あの戦争」を美化したい若い世代の参加者、上野の表現にしたがえば「頭の中で作り上げた“戦時中の日本像”」をとりあえずの核としてアイデンティティを構築したい参加者にとっては、こうした「戦中派」のリアリティはむしろ障害になる。上野によれば、調査当時28歳の公務員は、こう述べている。

日本の近代の戦争における英雄が英雄視されない理由は2つあります。
ひとつは左翼が「侵略戦争だ」「南京大虐殺だ」と騒いできたこと。
もうひとつは、戦中派と呼ばれる人たちがまだ生きていたこと。
前者は仕方がないのですが、後者については時間の問題です。非常に失礼な言い方ですが、人は死ななければ評価されない。ある世代は、その世代が亡くならなければ評価されないのです。戦中派が亡くなって、抽象化されて、初めて人は戦争に正しい評価を下すことができるのです。

「戦中派」の具体的な記憶を消滅させ、自分の志向に好都合な「抽象化」を施したあとに下されるものが、はたして「正しい評価」というに値するかは疑問である。しかし、ナショナリズムの創出に必要なものは忘却であるという社会科学のテーゼを、これほど無慈悲に示している事例は少ないであろう。こうした戦争の「抽象化」によって、彼らはアイデンティティの不安を埋めようとしているのである。
(第四章)

 
 
3月くらいに読んで、とてもおもしろかったのだけど、「受動的な“良き観客”」というのがあって、私もまるでそーじゃん、とか思ったら書いてるのいやんなってプライベートモードにしたのだけど、それもナイーブでだめだめなんだろうけれども。うー
 
 
 
それから

特集:靖国問題を考える(その3止)座談会 終わらない戦後、象徴(毎日新聞 2006.8.15)
 
戦没者追悼で時々引用される言葉ですが、吉田満さんの「戦艦大和ノ最期」に出てくる「日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ(略)敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ(略)日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ」というのがあります。
あの世代の最低限の合意がこれだったと思うんです。生き残った同世代は、彼らの死に負い目があるから、自分たちは国家再建を一生懸命やって、高度成長の日本を作った。それはあの人たちの犠牲を受け止めたからできた、ありがとうございますと。戦後復興に貢献した人たちが彼らの死をそう意味付けるのはやむを得なかったし、ある程度、正しかった。

私は政教分離靖国もよくわかってないです、すみませんです。
でも水俣病をどうして止められなかったのかを考えるときに敗戦を思います…
「やむを得なかったし、ある程度、正しかった」
いつまでも片付かない。8月はつらい。