緒方正人さん

 

[この人に]緒方正人さん (朝日新聞マイタウン熊本 2004.8.1)
 
−−石牟礼道子さん原作の新作能「不知火」が28日、「公害の原点」といわれる水俣市の海辺で奉納公演されます。公演や上演ではなく、なぜ「奉納」なのですか
山には山の愁いあり 海には海の悲しみや−−。「あざみの歌」を口ずさむと、人間たちのことを大自然が愁い悲しんでいるのではないか、と思えるときがあります。
加害企業チッソの前身、曽木電気が創立されて今年で98年、水俣病の公式確認から48年。「原点回帰」の節目の年まで、あと2年です。水俣病に限らず、海、山、川を侵し続ける人間社会に対し、地球自身が「そろそろ目覚めよ」と、信号を発しているのではないかと思えてなりません。犠牲者はもとより、多くの動物たちの「鎮魂と回生」への祈りを神に託す能は、奉納というべきです。それは、地球が発する警告信号に対する人間社会の「応答」です。

−−過去、自身の水俣病闘争に大きな転機が訪れ、「チッソは私であった」という本を著しました。その真意は
私は、芦北町の網元の家に18人兄弟の末っ子として生まれました。父が56歳のときの子で、孫のように可愛がられたという記憶があります。しかし、6歳のとき、父を急性劇症型水俣病で亡くしました。家族、親類にも胎児性を含む患者がいました。私自身、手足がしびれ、水俣病の症状を抱えています。このため、一族の敵を討つため、11年余りにわたってチッソと闘ってきました。しかし、85年を境に水俣病認定申請患者協議会の会長を退き、自身の認定申請も取り下げて闘争から身を引きました。チッソとの闘いといっても、実際は認定を巡るやり取りなど、行政相手がほとんど。認定されると水俣病を語らなくなる一部の被害者にも疑問を抱きました。正直、誰と闘っているのかわからなくなりました。一方、自らも「チッソ的な社会」の中にどっぷりと漬かっていることに気づきました。テレビ、パソコン、カーナビ……。液晶の中間材料のメーカーとして、チッソは世界のトップクラスです。仮に自分がチッソの社員だったとしたら、会社を守るため、同じようなことをしていたのではないかと考えました。

−−能奉納で、加害企業にも協賛を求めた理由は
車を運転する人は、排ガス汚染の加害者です。川を汚す大きな要因は、家庭からの生活排水です。私たちは、被害者であると同時に加害者でもあります。企業の「加害責任」というよりは「課題責任」と言い直した方がいいでしょう。加害者も被害者も共通の課題を背負っています。このため、水俣病事件で断たれた地域のきずなを再び結ぶ「もやい直し」は、チッソを欠いては実現しません。私たちの呼びかけに対し、協賛までには至らなかったが、チッソの社員の一部が個人的に「奉納する会」の会員になってくれました。会社全体の「意思」を変えるには多くの時間が必要ですが、一人ひとりの人間が壁を乗り越えることは可能です。実質的な協力と受けとめ、能の奉納をきっかけに対話の道を切り開きたいと思います。
 
不知火海の魚が、よみがえりますように−−。緒方さんは、そんな願いを込め、持ち船を「甦漁丸(そ・ぎょう・まる)」と名付けた。だが、近年、海から引き揚げる網には、汚泥状の物質がいっぱい絡み付いてくるという。ダムの放水で、湖底に沈んだヘドロが川に流れ出す。土木工事の赤土や合成洗剤が混ざった生活排水も海を汚し続ける。フグ、カワハギ、アジ……。魚の子を育み、水を浄化するアマモの群落地は、ほとんどが埋め立てられた。
過去2回、緒方さんは旧暦8月1日の夜中、愛船をこぎ出して不知火を見ている。8個、6個、4個……。海面に浮いた光の玉は、生き物のように数と形を変えた。こちらが見ているのに、なぜか向こう側から見られているような錯覚を覚えたという。
科学の目で見れば、不知火は、沖のいさり火などの光源が屈折して見える現象にすぎない。だが、緒方さんの「心の目」にはまったく違う光景が映ったようだ。たった1人で大自然に向き合ったときの畏怖……。恐れを忘れたとき、人間は取り返しのつかないしっぺ返しを食らうのだろう。(佐藤 彰)
 
おがた・まさと 漁師。53年、芦北町女島生まれ。認定申請取り下げ後、87年末から週1回、チッソ前での座り込みを半年間続けた。90年、県の水俣湾埋め立て地利用策に単身で抗議。94年、石牟礼道子さんらと「本願の会」を結成し、野仏を埋め立て地に建立し続ける。96年、「水俣・東京展」の開催に合わせ、うたせ船「日月丸」で東京湾まで13日間航行した。