イチョウ
そんな黄色くなくって、いいんじゃないですか??
 

座標軸を決めてしまうと、複雑な問題がすっきり理解できるような感じがするのでラクですよね。

て、ユニークフェイス石井政之さん。
いえべつに、言い訳じゃありません…
 
 
もしお金があったら、美容整形手術して「サトエリみたいに♪」て思うかな、私。
サトエリ綺麗だもん、うらやましい(おバカ)
どーだろ、するかな美容整形。やっぱりコワいかな。
もし彼女みたいな容姿だったら、じんせー変わってたはずかも、だけど
『自分の顔が許せない!』て…
許せるとか許せないの対象で考えたりしたことない、どうしようもないもんだと思ってきたもの。
美人なんて言われたことないし、コンプレックスはもちろんあるし、好きとも言えない顔だけれども。
でもそれは、アザがないからかな、わからない。
 

もしも僕が若いとき、20歳とか子どものとき、そういう完治する技術があったのならば、間違いなく受けていたと思う。でも今、この年になって、この顔で生きてきていろんなおもしろいことを経験してきたし、知恵も身についたので、ためらいがあるのは事実ですよね。
まさに顔で飯を食ってきたということは否定しない。
顔というテーマで、こんな顔をした人間が飯を食っていけることができるし、原稿料をいただける。なんとすばらしい社会だろうと思うし、そういうことができるということはひとつの冒険だと思っています。新しい仕事をしているという自覚はすごくある。それは、自分にはかけがえのない人生なので、今はそれこそ「アザのある人生を認める」ということはできると思っている。アザのある顔で生き抜くことは価値があると考えているわけですよ。
つまり、少なくとも僕は、選択する立場に立った気がするんです。
このアザをネタに飯を食うか食わないか、という選択をする立場に立つことができた。ほかに誰もやっていませんから、じゃ、やってみようかな、と。
『自分の顔が許せない!』中村うさぎ石井政之(2004年)より

 
たとえば、顔にアザがあるからと、いじめられるようなことがまったくなくなったとしても

自身の姿をそのまま受け入れることは、やっぱりむずかしいままかもしれないな。
他者の視線だけでない自身を見ることのなかに葛藤はあって、とても大きいだろうもの。
程度の違いはあっても、それはフツーの女の子にだって…
それでなくても、ひとが受け取る情報量の80%以上は視覚によるものだし、ビジュアル情報が重視されるいま
ちょっとした違いに敏感になって縛られる、不安になる。「痩せてなきゃダメ」とか…
「外見じゃなくて中身だよ」て、私にも言いきれない。
だけどそれだけじゃない、それがすべてじゃない。
 
見えることの不自由さを、思ってしまう。
 

僕はさっき「美醜の競争から降りた」と言いましたが、一方で、この顔は私の顔ではない、というしんどさもあるんです。つまり、この顔を見た人が勝手に僕の内面を全部決めるわけですよ。私という人間をちゃんと見るという努力を、初めからしない人がたくさんいる。
彼らにとっては、僕の顔というのはアウトサイダーのシンボルであって、その意味づけ以上に深入りする気は初めからないわけです。僕の顔は初めから社会のものというか、共同体のなかでのアウトサイダー的な役割を担わされたキャラクターのシンボルなのです。
そういうなかで自分の顔をどうやって取り戻すか、と考えながら生きてきた。今は、自分の顔を取り戻したという実感があります。僕が自分自身の顔面に対して抱いているイメージと、他者が石井という人間を見るときに感じるイメージがかなり一致してきたと思うんですね。顔にアザがあることで生じるイメージによる、周囲からのマイナスの評価に対して、自分自身で対抗する言説をつくり出すことができてきた。
その結果として、コンプレックス的な部分が解消されてきたと思うんです。
「自分の顔の意味づけは自分でやるから、皆さんは、ちょっとご遠慮願えませんか」と、そういう言い方ができるようになったと思うんですね。
『自分の顔が許せない!』より

 
 
単純性血管腫のある2歳くらいの女の子。ひとなつっこくてかわいかったです。
でも、いじめられたりするのかな。ままならなさに泣くのかな…