学校教育を変える制度論

 
今日も雪がちらちら。でも、こいのぼり泳いでいました。きっと初節句でしょうね。
 
『学校教育を変える制度論 ISBN:4860500083
むずかしーです。さっぱりわかりませんです。もういやかも。ぶー
制度論的精神医療ってなんだろ。これではとくにスクールカウンセリングについて書かれてます。

「システムは各々それら固有の方向性に従って展開し、特にシステム群同士の中で交差する」とガタリ自身が書くように(『自由の新たな空間』)、それぞれの制度分析はどのように出会えばいいのかというもう一つの大問題がある。今の日本の学校は、ちょうど学校と精神医療(あるいはカウンセリングシステム)のあいだで、制度分析同士の出会いが生じなければならない状態になっている。さもなければ、学校の混乱という名のもとにいたずらな心理学化が行われ、ハード化した精神医療(あるいはサイコセラピー)がどんどん浸透していく危険性がある。
(教育学と精神医学の対話:三脇康生

カウンセラーは心理療法家として医療制度の中で活動する、これが原則である。現在拡充されつつある学校カウンセラーは教育制度の中で活動する、これがもっとも明快な違いである。
以前から学校医という制度はある。しかしこれは健康診断とかの特別の日に学校に現れるだけで、教育制度の一部として常設されていたのではない。それは身体的健康管理が教育の営みにとって付随的な位置にとどまっていたということである。今学校カウンセラーが常設されつつあるということは、精神的健康管理が教育の営みの日常になってきたということである。
(制度論的教育学の今日的意味について:岡田敬司

一般には、「治療」に来ているのならば社会適応を求めているはずだという考え方があるのは確かである。しかし、多かれ少なかれ社会的な次元に身を置いて仕事をしている治療者の側が、少し注意してクライアントの無意識的な次元で「症状」の意味を捉えようとするならば、クライアントが単に社会適応を求めて来ているわけではないことが容易に読み取れるケースは数多くある。こうしたケースに表立って、あるいは暗黙のうちに社会適応を求めるような関わりを持つことは、クライアントの内的な問いに対して社会的価値という蓋を押し当てる結果になりかねない。
学校内部でのカウンセリングが社会・教育的な枠の押し付けにならないためには、特にこうした問題にカウンセラー自身が注意を払っておく必要がある。
(学校内部でのスクールカウンセラーの機能について:丸山明)

最近は事件の後などには派遣されることが多くなったスクールカウンセラーですが、
そうではなくても常駐(週1とかかな)している学校もあるようです。
でも、スクールカウンセラーがくることによって学校、生徒がどうかわったのか、考えてみたことなかった。
必要なんだろって、なんとなく「学校にカウンセラー」を、もう受け入れてしまってるのですねえ。
学校でおきる問題(行動)を安易に治療対象にしてしまうのはギモンに思うことはあります。
それは問題を学校の外(医療)へ押しやることになるから、というより、学校だったり家庭だったりの
子どもを取り巻く環境が変わらなければあまり意味ないのじゃないかと思うからです。
カウンセリングにおいてもそういうところは考慮されているのでしょうけれども、
それでも精神医療だけでは解消できないことが多いのじゃないかと思ったりもしています
(身近なケースしか知らないで言ってはいけないかもだけど)だから学校にこだわるのかもしれません…
 
1年半くらい前に、町の広報紙に中学生の作文が載ってたことがありました。
中学校にスクールカウンセラーがくるようになって、図書室に司書教諭がいなくなったそうです。

司書さんがいなくなってさみしいです。
私には、週1回くるカウンセラーさんより、毎日いてくれて気軽に話せる司書さんのほうがいい。
大人に都合があるのはわかります。でも、大人は私のことをわかっていません。

この作文がひっかかったままになっています。
スクールカウンセラーを必要としている子どもはいるでしょう。
もし先生方へのサポートになってしまっているところがあるとしても、それは私には否定できないことです。
ただ、同じように、先生でも親でもない信頼できる大人と話せる場が
(それが学校にしかないということが、そもそもちがっているのだとしても)
毎日そこにいてくれて友だちも交えて他愛ないおしゃべりのできる場所が、彼女には大事だったのでしょう。
カウンセリングルームが必要な生徒も、保健室じゃなきゃって生徒もいる。
だけど司書教諭のいる図書室がいい生徒もいて、その日常性に安心できる生徒は
カウンセラーの専門性を必要とする生徒より、もしかしたら多いかもしれない。
もちろん少ないからと軽視するつもりはないのです、でも、そんなことを考えられたうえで決められてるのかなって…
予算は限られてて「なんでもかんでもというわけにはいかない」というけれども、
生徒数が450人以上の学校には専任で置くようにとされているし、学びの場において
邪魔になるわけじゃない「司書さん」を彼女から取り上げないで“学校の装置”の1つとして活用することが
どうしてできなかったのかって思ってしまいます。
そうできたからといって、学校が安易に精神医療に依存しなくてよくなるとも言えないでしょうけれども。