silent tsunami と性教育バックラッシュ

 
http://d.hatena.ne.jp/arcturus/20050719 の続き。

もすこし考えてみました。
 
知識がありさえすれば行動が伴うかって、無理っぽい。
胸に手を当てて聞いてみたのじゃないけれど、そんなもんだし(笑)
ピンポン感染とかにしても、どこかで倫理観とか思いやりみたいなとこは必要になってくるし。
そゆーのをどう伝えるかって、むずかしい。
でも、そこを抜きにしちゃうと「ビョーキはこわい」しかなくなってしまう。それも、こわい。
気をつけて書いたつもりだけど、やっぱり足りないなって。
HIVについては「日常生活では感染しない」を強調して教えられてるみたいで、それは大事なことと思う。
 
STDのリスクがないなら、自覚症状のないまま産道感染したり、不妊やガンの原因因子の1つでなかったなら
ちょっとくらい失敗したほうがいいし、お互いをずぶずぶ傷つけあうのも、それはそれでお勉強だろうし
「わざわざ学校で教えることじゃない」てラクなほうを、オトナは選べばいいのだけれども。
メディア(と決め付けていいかは、わからないけど)からの「さっさとやっちゃえ」なメッセージにおろおろして
学校では「するな」と教えられる。「しなきゃリスクもないから」と、無防備で放り出される。
くるしい後悔させるかもしれないのに。
「教育的指導」で、オトナは押さえ込もうとする。それを、すべて否定することはできないけれど。
だけど彼らだって生身なんだよ。血の通わないお説教に、振り向くはずがないじゃない。
 
家族解体狙い愛国心もない東京新聞 2005.7.2)

><

マジメに書かなきゃ、なんだけど萎える××
「行き過ぎ」と批判するひとたちは、どこまで戻したいのだろう。
それで、なにを守りたいだろう。
 
 
http://www.lomalinda-jp.com/%EF%BC%91%EF%BC%90%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%80%A7.htm
ざっと読んでみました。ふう。
 
あと、うまく書けないですが、性被害から守るため、という視点で性教育を捉えることはできないでしょうか…
大人に「たすけて」を言えなくさせてしまうことが、なにより問題だと思うのです。

狙われる子供の性 読者の声「私も被害」心の叫び(毎日新聞 2005.6.5)
 
「確かに子供の性が危ないと思います。よくレイプや妊娠という情報が入ってきます」。新潟の高1少女は携帯電話からメールを送ってきた。「少女監禁事件以降、友達の間でも緊張感が走っています。地域で不審者が多発したこともあり、今狙われるのは自分たちだとみんな感じているからです。でも、私たちは抵抗できなかったり、被害に遭っても助けを求められる大人がいないのです。親になんか言えません。信用できないし、子供がこんなに性について知っているなんて、親にとって許せないと分かっているからです」

 
 
も1つ。引っかかってたエントリ。

http://d.hatena.ne.jp/yosukezang/20050306#p2
踏み込んだ性教育はやっぱり必要だ、という主張において、実際の高校生がそうした性体験をしているからだ、っていう話はよく聞く。臭い話にふたをしても(別に臭くはないけど)、見えないところでことが進んでいくだけだからよっぽど危険な事態が訪れる。そういった主張に対して、僕は諸手を挙げて賛成する。だけど、ここでいいたいのは、実際に性体験をしている人だけでなく、まだ性体験をしたことがない人、もっといえば、一生セックスなんてできると思ってない人にこそ(わたしも実際そのように思っていた)、性教育が必要だと思うってことだ。性的な関係に接することができないし、周りも助けてくれない、そういう人にとっては、性的なことがらは恐怖の対象だと思う。性行為の低年齢化が進めば進むほど(そのように言われるほど)、その抑圧は強くなる。


 
7月30日追記
 

『男女共同参画』法改廃狙い(東京新聞 2005.7.25)
 
「新・国民の油断」で八木氏との共著者である「つくる会」名誉会長の西尾幹二氏はこう記している。「集団就職が盛んだった時代、(就職先の社長らの勧めで、青年たちは)何も文句を言わないでどんどん家庭をつくって、うんと子供を産んで(略)日本は生命力にあふれていました。個を無視しているからいけないとか、自己決定がどうとか、そういうくだらないことは誰も言わなかった」
対照的に、ダイアモンド氏は「個」や「自己決定」を尊重する立場から、こう結論付けている。「ジェンダーや性的関係について、個人の選択や意見に介入する権利など、だれ一人持ってはならない」

 

http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/20050728/1122489162
「情緒」とか「命」とかといった抽象的な言葉を使うのは構わないけれど、それをどのようにしたら伝達できるのか、ということに知恵を絞ったほうが実りがあるんじゃないかと思う。スローガンだけなら誰でも言えるんだよ。そして、目にしたくない問題の解決のために、原因をすべて「モラル」に押し付けるということも、誰にでもできることだ。しかし、このような「モラル」への帰責化によって解決できることは何もない。