50年

 

1956年5月1日

 
重要港湾指定されていた水俣港、貿易開港。

新日窒工場*1の硫リン安および硫加リン安などの本格的生産開始とともに韓国、台湾その他への輸出が増加するいっぽう米国、エジプト、モロッコなどからのリン鉱石東西ドイツからのカリ、韓国からの黒鉛などの輸入も年とともに増加の勢いにあって開港問題がクローズアップされてきたわけだが、市の将来はいつにこの開港問題にかかっているだけに異常な力こぶの入れようだ。(中略)1万トン級の船舶が入港出来るようにして新日窒工場を背景とした近代貿易港とする計画案が立てられた。その正式計画案は近く完成、運輸省発行の雑誌「港湾」に発表される予定である。同港の修築に最も有利と見られているのは湾口に横たわる周囲4キロの恋路島が自然の防波堤をなしているということで、約5億円の工費が節減されるもようだが、全国を通じて防波堤を必要としない港は清水港と百間港の2港だけといわれる。
熊本日日新聞 1956.1.7)

 
この年の5月8日に公式発見の第一報をする西日本新聞も、それに先立つ1月21日には、この水俣港の貿易開港という懸案を、「大型船舶が横づけ、7年計画で修築、移出入直接行う10年後の水俣港」という見出しで、水俣の経済発展を進めるための地域的課題として、期待を込めて報道している。
これらの報道からは、すでにチッソを中心にして経済的発展を遂げてきた水俣が、港湾を整備して、今後もチッソ水俣工場の生産を拡大させながら、さらなる経済発展を進めていこうとするディスクールが、水俣病公式発見のその年の新聞報道において編成されていたことが明らかになる。こうしたディスクールで語られていたのは、水俣港の貿易開港による、水俣のより一層の地域的経済発展だけではない。原材料を海外から調達し、それを高度な技術によって製品化して海外に輸出することによって可能となった日本の経済成長の模範的なかたちを、チッソ水俣工場を中核としたこの地域で展開していこうという一種の意気込みもまた、そこでは語られていたのである。*2

 
新聞報道では、貿易開港で経済発展のあらたな段階を迎えた水俣の海はチッソのための天然の良港であって海から暮らしのすべてを得て生きてきた漁民の生活の場として語られることはなくなっていきます。
その一方で“奇病”は拡がり、「驚くべき生活環境」などの見出しで漁民の貧しさが報じられていくのですが、当時、かならずしも「漁民は貧しい」ではなかったようです。水俣病被害のために「貧しさを極めた」けれど「3日漁に出ればチッソの給料の1ケ月分」の証言があるといいます。それでも
チッソは豊かさだけを、漁民は貧しさだけを象徴するようにとらえて私たちは、チッソを選んできたんですね…
 
 
 
 

2006年5月1日

 
4月17日までに1028人が提訴。認定審査会は停止したまま申請者は3700人を超えました。

水俣病新救済策選択は1割未満、熊本など認定申請者4068人中(読売新聞 2006.4.16)
 
最高裁判決後、13日までに認定を申請した人は熊本県2759人、鹿児島県1309人の計4068人。このうち手帳交付再開に応じ、申請を取り下げたのは両県合わせて271人で、全体のわずか6.7%にとどまっている。
残る3797人は申請をしながら、認定審査を受けられない状態。最高裁判決が、現行の認定基準より緩やかな基準を採用したことを受け、両県の認定審査会委員が「司法と行政の二重基準が解消されない限り、認否の判断はできない」として再任を拒み、委員会が開催できないためだ。

 
犠牲者慰霊式には環境相が出席予定で首相の談話が発表されます。国会決議も。

首相談話案概要判明 被害の拡大を謝罪 繰り返さない決意(熊本日日新聞 2006.4.20)
 
談話案では、水俣病が高度経済成長の中で起きた悲劇とする認識を示した上で、原因企業への対応に時間がかかり被害を拡大させたことへの反省と謝罪を盛り込む。さらに水俣病の経験、教訓を国内外に発信、環境を守り安心して暮らせる社会の実現に取り組む決意を示すことにしているが、水俣病認定基準の見直しなどには触れない。

国会決議案 公害の再発防止決意 与党と民主党(熊本日日新聞 2006.4.15)
 
五月一日の水俣病公式確認五十年に合わせ、自民、公明の与党がまとめた国会決議案の内容が十四日、明らかになった。民主党も同日、独自の国会決議案をまとめた。
両案とも公害の再発防止などをうたう点では同じだが、民主党案は水俣病被害の全容解明を目的とした調査実施を盛り込んでいる。それぞれ週明けの衆院議院運営委員会で提示し、再来週の衆院本会議可決を目指す。

でもね裁判で損害賠償求められてる国が首相の談話とか国会決議とか、それってどーよ、て感じですけど…
 

水俣病の統一診断基準を決定、弁護士ら損賠訴訟の証拠に(朝日新聞 2006.4.17)
 
原田教授は「(共通診断書と診断基準に沿って)裁判所がどんどん患者と認めることになれば、事実上、行政の認定基準も審査会もいらなくなる」と話す。

 
 
懇談会ではまだ提言を出せそうにありません。

第9回 水俣病問題に係る懇談会会議録(2006.3.2)
 
かつての訴訟される人たちは、認定審査会で棄却された人たちが司法に救済を求めておいでだったんです。ところが今回は違います。今回は認定審査会を経ずして、直接司法に救済を求めておられるわけであります。そうしますと、認定審査会の存在そのものが申請者から無視をされた、否定をされたというふうにとることができるのじゃないかと思いますし、また、審査会が開かれて審査をされ、ところが、現在の状況を見ますと、水俣病と認定される人はごく少ないのではないかと思われます。そして棄却された人がほとんど。そうすると、棄却された人は保健手帳をお求めになるか、また訴訟に参加されるか、2つに分かれる。そうしますと、患者補償はもうすべて司法で、そして行政は健康管理だけという図式になってしまうおそれがございます。それでよいのかという一つの疑問があります。
私は、このような状況にどう対処するのかと、その考えられる対策の一つとしては、現在実施をされております新対策だけで、批判があろうが抵抗があろうが我慢に我慢を押し通していくという方法があると思います。被害者は昭和40年代前半で水銀に暴露された人たちでありますから、これから漸減をしていきます。それから、あと30年もすると被害を訴える人々はいなくなる。裁判闘争も10年ぐらいで終わるのではないかと思いますし、認定条件をいじくることで想定される混乱も回避できる。特に政治的最終決着についても触れることなく終わってしまうんじゃないか。年を経るごとに一般社会も関心が薄れる。それから、やがて自然消滅してしまう。こういうことを考えますと、水俣病問題を解決するのではなくして消滅させるという意味で、一つの現実的な選択でなかろうかと思います。しかし、これは国民的、あるいは歴史的批判に耐えることができるのかという重大な問題があります。それから、国の責任とは何なのか。環境省と国政の根幹が問われることになると思いますし、国際的にも先進国と言われている日本が恥ずかしい教訓を残したと、こう言われかねないというのもあります。(吉井委員)

 
被害者が「漸減」していくのを待つとしても、死んでそれでおしまい、にならないみたい。
ずっと傷つけつづける…

水俣病犠牲者慰霊碑(朝日新聞 2006.4.13)
 
死亡した認定患者1577人のうち、名簿掲載者は約2割。検討委が打診しても「必要ない」と断られる例は少なくない。未認定患者の遺族が市に対し、「名簿に載せて欲しい」と求めることもないという。
12日の会合では「死後も認定・未認定で扱いが違うのはどうか」との疑問が出され、「慰霊部会だけで結論は出せない。市民全体で考えるべき問題」との認識で一致。次回の実行委総会で、名簿の掲載基準を検討する場を設けるよう提案することを決めた。慰霊部会長の金刺潤平さんは「犠牲者を分け隔てなく悼むための慰霊碑。管理の仕方を含めて議論した方がいい」と話した。

「水俣病慰霊の碑」完成 名簿には認定患者のみ(熊本日日新聞 2006.4.12)
 
水俣病公式確認五十年に合わせ、被害の原点である水俣市水俣湾埋め立て地に市が建立していた「水俣病慰霊の碑」が完成、三十日には落成行事が予定されている。碑文には「不知火の海に在るすべての御霊よ 二度とこの悲劇を繰り返しません」と刻まれる。だが、この石碑に納められる銅板に刻む犠牲者名簿は認定患者に限られている。すべての犠牲者の鎮魂を願う思いと、「認定」「未認定」で分かれる複雑な水俣病補償制度とのジレンマを象徴する形となっている。
慰霊の碑は、患者や市民らが参加する五十年事業実行委員会の部会から「遺族や市民、訪問者が自然に手を合わせる場がほしい」との要望が上がったのを受けて建立された。費用七百四十万円は同市と国が折半。三十日の落成行事では、これまで名簿が納められてきた近くの「水俣メモリアル」から名簿を移す。
同市によると、名簿奉納は一九九六(平成八)年の水俣メモリアル完成時に、原爆犠牲者の慰霊形式にならってスタートした。その際、患者団体などで構成する「名簿検討委員会」が犠牲者名の記載を認定患者だけとすることを決めた。「行政が造るメモリアルに、行政が水俣病と認めていない人の名前が入るのはおかしいという意見だった」と関係者は振り返る。
しかし、亡くなった認定患者全員が記載されているわけでもない。認定患者二千二百六十五人のうち死亡者は千五百七十七人に上るものの、名簿を奉納しているのは二割の三百十四人にとどまる。「家で供養している」「患者だったことを外に出す必要はない」などとして記載を見合わせる患者団体や遺族も少なくないためだ。
今回の石碑落成に当たっては、認定患者の名簿と一緒に碑文と同じ文言の銅板が納められる。名簿検討委の委員で、石碑の提案者でもある水俣病茂道同志会会長の鴨川喜代太さん(62)は「これまでは一部の患者だけにしか祈りをささげていない形で、違和感があった。『すべての』という文字が入ったことで、被害を受けたすべての人間、動物に対して祈ることができる」と一歩前進を評価する。ただ、政府解決策の和解対象者など未認定患者の名簿記載に関しては「名前が一緒に並んだとしても、現実の補償には認定患者と違いがある。そこで問題が生じるかもしれない」。
複雑な補償・救済制度や差別の歴史が生じさせた患者間や遺族のしこり。「慰霊の碑」建立にも、それが色濃く投影する。同市水俣病資料館館長の吉本哲郎さん(57)は「同じ患者をさまざまに区別してきた国の補償制度が患者の心を引き裂いてきた。それに市が振り回される必要はない」として、議論の場を作り名簿の扱いの再検討を始めたい考えだ。

 
同じように魚を食べてきたはずの、きょうだい親子のうちでも認定・未認定に分けられる認定基準でした。
身体的な苦痛を抱えても患者自身に、「そげん見苦しか病気に、なんで俺が罹るか」と言わせるほどの、差別の、その傷痕を、どうしたら癒すことができるでしょうか…
 
 
 

ノーモア水俣病:50年の証言/8 自主交渉/上/熊本(毎日新聞 2006.4.4)
 
「潜在患者の問題を含めて水俣病問題がどうして起こったか等、ハッキリとした形を取らない限り、形だけの世論を作り上げて終わりにしたいのなら、いずれ近い将来において、今より以上に大きな社会問題として各層、各界の責任が追求されるであろうことは断言してもよいと思う」

川本さんが亡くなって3日後、ミヤ子さんに「天草の者」と名乗るひとから電話があったそうです
「輝夫が死んでよかったな」て。
 
 
 
 
水俣病患者に犠牲を強いて手にした豊かさを手放すことができません。私にはできないのです。
それでは誠実な償いなんてできませんか??
もう50年も経っているのに、1人でも多くの方が生きていらっしゃるうちに、そうしたい。
どうしたら、できるのかな…
 
 

*1:チッソ

*2:水俣学 研究序説』より