50年の節目に その2

arcturus2006-05-26

 
 

もっと、ジャーナリズムも、行政も、胎児性水俣病患者の存在に対して、はっきりした答えを持って、望まなければ、単なる哀れみの象徴に、彼らを利用しているだけにすぎなくなってしまう。
 
形骸化した「水俣病国会決議」よりも、実のある「認定基準の見直し」を(Sasayama’s Weblog ? Blog Archive ? )

 

記事のくりっぷ。読んでるといやんなるけど。

水俣病のいま:公式確認50年/3 行政の無策、放置なお(毎日新聞 2006.4.28)
 
◇「見捨てられた」40代
チッソ水俣工場(熊本県水俣市)が排出した有機(メチル)水銀に汚染された不知火海沿岸で今、40代の人たちに水俣病と同じ症状が次々と確認されている。汚染魚を子どものころ摂取しながら被害がほとんどないと見られていた人たち。それは行政の無策がつくった「見落とされた世代」だ。
 ◆  ◆  ◆
「物をよく落とすようになった。すぐにつまずく」。今年2月、御所浦島(同県天草市)の民家で、検診を受けた40代の女性はもらした。指先や足に針のような検診器具を当てられても何本あるのか分からない。強く押しても痛みを感じなかった。明らかな感覚障害だった。
2歳のころの毛髪水銀値は74・8ppm。熊本大が同時期に調査した熊本市民の平均値は2・3ppmだった。障害のでる発症危険値とされる50ppmを大幅に超えるが、水俣病認定申請をしたことがない。「認定されるのが怖かった」「恥ずかしかった」と耐えてきた。しかしこの女性のように症状がひどくなり、初めて検診を受ける人が増加している。水俣協立病院が04年11月から05年8月にかけて検診した1069人のうち、40代が約15%、30代も3%いた。大半の人に水俣病患者に共通する感覚障害があった。
水俣病は公害健康被害補償法に基づき、申請者の症状を熊本、鹿児島両県の認定審査会が判定する。申請しなければ診察を受ける機会はない。重症患者が目立つ50代以上の世代と異なり40代は自覚症状が少なく、周囲の偏見もあり申請をほとんどしていなかった。
熊本県の医療事業適用者は「68年までに魚を多食した人」。行政は早くから、子どものころに食べたこの世代についても危険性を認識していた。水俣協立病院の高岡滋総院長(45)は「国は『見た目に問題がないなら放っておけ』という態度だったから今も実態がつかめていない」と批判する。御所浦島で検診を続ける熊本大大学院の浴野成生教授(56)も「毛髪水銀値が高いと分かっている人も放置した」と憤る。
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熊本県は60〜62年、水俣湾と不知火海沿岸の住民約2900人を対象に毛髪水銀値を調査。71年には約5万人規模の一斉検診を実施した。毛髪水銀値50ppm以上が376人、一斉検診では「水俣病の疑い158人」だったが、追跡調査をしなかった。県のデータを基に水俣市などで独自調査した熊本保健科学大学の岡嶋透学長(80)は「大学も行政も公害に対する認識が低かった」と弁明する。
熊本県は関西訴訟最高裁判決を受けて、不知火海沿岸に居住歴のある47万人を対象とする健康調査実施を環境省に申し入れたが「大規模すぎる。今になって調べる意味も分からない」と、とりつく島がない。県は独自に今年度、「71年の検診データ」を改めて検証することを決めたが、対策もそれどまり。行政には被害拡大を防げなかった責任を教訓にしようという姿勢は見られない。半世紀を経ても被害の全体像さえつかめず、終わらない水俣病への変わらぬ怠慢を示している。

水俣病:公式確認50年 苦しみ、今も絶えず 被害救済、なお課題その1(毎日新聞 2006.4.24)
 
◆富樫貞夫・熊本学園大教授の話
◇行政責任認めた意義 「予防原則」見ぬ限界も−−最高裁判決
95年の政治決着以後、唯一継続した関西訴訟の最高裁判決がなければ、法的な行政責任はあいまいなまま終わっていた。水俣病史に大きな汚点として残ったはずで、最高裁が国と熊本県の責任を確定した意義は大きい。
一方で判決の限界も指摘したい。判決は59年末を基準にし、それ以降の被害拡大を防止しなかった責任を問うている。59年7月に熊本大学医学部の有機水銀説が出た。11月に厚相(当時)の諮問機関である食品衛生調査会が追認する形で「原因はある種の有機水銀」と報告した。判決は、唯一の国の公式見解を踏まえ、59年11月を判断時点として国の責任を認定した。
実は、公式確認の56年から59年まで、水俣湾と周辺海域は最も汚染され、被害発生がピークに達していた。この時期に被害拡大の防止対策をとらなかったため巨大公害事件となったのに、60年以降しか国、県が責任を問われないのは問題だ。
判決は「59年時点まではメチル水銀という原因物質の究明がないため防止策は立てられない」との考えに立つ。しかし、人体に大きな影響があると考えられる場合は科学的に因果関係が証明されていなくても規制できるという「予防原則」からすれば57年には対策を立てられたはずだ。
水俣保健所の伊藤蓮雄所長(当時)は57年にネコの水俣病発症を確認し、県に「水俣病水俣湾で何らかの毒物に汚染された魚が原因。魚を食べさせない措置をとってほしい」と報告した。結局、県から打診を受けた厚生省が「すべての魚が有毒化しているという明らかな証拠がない限り食品衛生法は適用すべきではない」と回答、予防策は立ち消えとなった。
食品衛生法は公害を念頭に置いた法律ではないが、3次訴訟第1陣の熊本地裁判決(87年3月)は「当時のすべての法律を動員してでも拡大防止の策をとるべきで、それを怠った行政に責任がある」と判断している。
当時の厚生省も最高裁も「原因物質」にこだわった。そのスタンスこそが、被害を拡大させた最大の原因とみることもできる。これからの環境汚染問題には、予防原則が重要だ。「魚が危ないと分かれば被害は防止できる」という伊藤所長らの考えこそが、予防原則だ。最高裁にはそれをもっと正面から評価してほしかった。(談)

環境相、駆け足訪問 患者団体「国は格好だけ」慰霊式(熊本日日新聞 2006.5.2)
 
千人を超える会員が国と熊本県チッソに損害賠償を求めて訴訟を起こした「水俣病不知火患者会」会長の大石利生さん(65)は開口一番、「今なお救済が終わっていない現状をどう感じているのか」。「悲劇を二度と繰り返さない」とした首相の談話を取り上げ、「二度目の話よりも前に、一度目がまだ解決していない」とかみついた。
水俣病出水の会」会長の尾上利夫さん(68)は「最高裁判決の意味を曲げているのは国だ」として、医療費の自己負担分を支給する新保健手帳交付などにとどまる環境省の対策を批判。一律七百万円の一時金などを求める要求書を江田副大臣に手渡した。「水俣病被害者芦北の会」会長の村上喜治さん(56)も、一時金二百六十万円がチッソから払われた政府解決策並みの救済を訴えた。政府解決策に応じた団体からも「新保健手帳の拡充の検討を」「まずは被害者を水俣病と認めるべきだ」などと、新規申請者への”援護射撃”が相次いだ。
これに対し、江田副大臣は「この状況をそのままにしておくわけにはいかない。しっかりと耳を傾けたい」と答えた。
終了後、大石さんは「一団体三分はあまりにも短い。公式確認五十年に合わせて格好を整えただけとしか受け取れず、悲しい。もっとじっくり話を聞いてほしい」。尾上さんは「慰霊式に出席した環境相が出水市に来ないのは、後ろ向きの姿勢の表れだ」と語った。

全面救済ほど遠く 水俣病50年 与党駆け引きで迷走 いびつな対策、追認続く(西日本新聞 2006.5.1)
 
被害者団体が司法判断に沿った行政の認定基準見直しを要求しているのに対し、環境省は「判決は認定基準を否定していない」と拒否している。与党も「認定基準を見直せば、政治決着で認定申請を取り下げた未認定患者を巻き込む」(自民党)と現行制度維持に同調する。その一方で、自民、公明両党の足並みには乱れも生じている。
自民は新たな申請者をさばくため、国による認定審査会を再設置する議員立法に動いたのに対し公明は「解決にならない」と共同提案を拒否。環境省が新対策として医療費全額支給に改めた保健手帳に療養手当を上乗せするよう主張している。申請者らの目先を患者認定から保健手帳に向けさせる狙いだが、自民は回答を保留している。「公明は政治決着時は野党。過去の決断の重みが分かってない」「自民はチッソ分社化を取引材料に持ち出した」と両党は冷戦状態。他方、民主党は与党に対抗、政治決着を含めたすべての未認定患者を救済する特別立法を打ち出した。
党利党略もちらつく駆け引きの中「政治の動きを受けて判断したい」と沈黙する環境省。声高に叫ばれる「水俣病の教訓」といびつな被害者対策の落差は大きい。

苦難 混迷 そして願い 水俣病公式確認50年の日 市民ら思いそれぞれ「どう向き合えば」困惑も(西日本新聞 2006.5.2)
 
■「十字架を背負わされ」 湯堂・茂道
患者多発地区の同市湯堂。認定患者の男性(73)は1日、しびれる手足の痛みをおして漁に出た。「50年っていわれても…。特別なことはなか」とぽつり。
同じく「激震地」の同市茂道の漁業男性(69)は「茂道のもんは水俣病で一生十字架を背負わされとる。今でも子ども、孫が『出身どこね』と聞かれて『茂道』とは答えきらん」と声を荒らげた。そして、かつて豊かな海だった不知火海を見つめながら「50年っていうが、認定基準でこげんもめとる。まだまだ長引くとかな。魚もまったく獲れん。豊漁だったころの海でいつか漁がしたい」と語った。
祖母が水俣病患者だったという茂道の養殖業男性(36)は「われわれの世代は水俣病を真剣に語っているとは思えない。自由に話せる雰囲気じゃなかったから。これからどうやって水俣病と向き合えばいいのか、正直分からない。セレモニーで50年っていわれても…」と声を落とした。
■「節目」という実感なく 市街地
同市中心部の商業ビルで買い物をしていた同市の看護師女性(32)は「水俣病50年」について「どんなに時間がたっても『節目』という実感がない」と言い切った。理由として挙げるのは、水俣病問題をめぐる複雑な住民感情。「水俣の住民から多くの犠牲者が出たけど、チッソに働く住民も多いのが現実。市民全体が被害者でもあり、加害者でもあるところが難しい」と渋い表情をみせた。
一方、同じビルで買い物を済ませた後、家族の迎えを待っていたチッソに勤める男性(57)は「定年退職を間近に控え、今は自分のことで精いっぱい」と苦笑い。水俣病問題の早期解決の糸口が見つからない点については「1市民としては早く忘れたい」と答えた。

ノーモア水俣病:50年の証言/番外編/熊本(毎日新聞 2006.5.2)
 
◇教訓を学ぶ場所に−−慰霊碑建立を提案した「茂道水俣病同志会」会長の鴨川喜代太さん(61)
犠牲者の名簿を納めた水俣メモリアルはあったが、慰霊のための場所ではなかった。名簿は認定患者に限られたうえ、「そっとしておいてほしい」という遺族の意向で納められなかった名簿もあった。
それで、碑文には「すべての御霊(みたま)」の文字を入れた。
日本のため、会社のためと言われて犠牲になった人に、世の中の人が手を合わせる場になればと思っている。慰霊碑が水俣の思いを伝え、訪れた人が教訓を学んでくれたらいい。
水俣は人々の気持ちが通っている土地だ。多くの人が水俣病と騒がず静かに心穏やかに過ごせるようになった時に、水俣病は終わったといえるのだろう。
◇再び政治の出番だ−−95年の政治解決時の水俣市長だった吉井正澄さん(74)
政治解決は、未認定患者を1万人以上救い、ずたずたにされた地域社会を安定させ、大きな意義はあった。一方で、水俣病患者としての救済ではなく、行政責任を確定できなかったことが課題として残った。
今の焦点は認定問題なのに国は逃げるばかり。認定基準を変更すればこれまでの施策との整合性がなくなると恐れている。確かに、政治解決の人たちや認定患者をどう位置づけるか、チッソ支援をどうするかなど問題はあるが、認定基準の見直しを含む全面解決策を検討する第三者機関を設け、話し合えばいい。再び政治の出番だ。このままだと、50年たっても解決できない「恥の教訓」を世界に発信することになる。
◇世論の後押し必要−−水俣病訴訟弁護団長の千場茂勝さん(80)
水俣企業城下町。患者は裁判に訴えることで、初めて城主「チッソ」と対等の立場に立つことができた。法廷ではチッソに要求をぶつけられる。患者にとって革命的なことだった。
企業や行政の責任を認め、国の認定基準を否定する判決を次々と勝ち取った。司法判断を積み重ね、患者切り捨て政策をとる行政を追いつめた。賛否はあるが、政治解決も引き出した。だが、行政に認定基準を見直す姿勢はなく、根本的な態度は変わらない。
悲しい現実だが「行政は公害被害者の味方ではない」ことを明らかにしたのは司法の功績だと思う。患者救済に司法の力だけでは限界があり、世論の後押しが必要だ。
◇認定基準見直しを−−患者支援組織「水俣病市民会議」会長の日吉フミコさん(91)
50年たってようやく多くの人たちが水俣病のことを分かってきてくれているという気持ちです。しかし、被害者の生活や気持ちが本当に切り替わったとは言えない。
関西訴訟最高裁判決で行政責任がはっきりしたのに国の反省は口だけ。どうしたら多くの被害者が救われるかという考えはない。かつて大石(武一旧環境庁)長官は「1%でも可能性があれば水俣病だ」とはっきり言った。認定基準は見直すべきです。問題解決は、行政がどう頑張るかにかかっています。
自分が元気だったら、環境省に乗り込みムシロをかぶって夜営でもして訴えたい。今もそんな思いがあります。
◇医学界も責任重い−−1万人以上の患者を検診した水俣協立病院名誉院長の藤野糺さん(63)
多くの医学者の努力で原因物質をメチル水銀と特定し、主要な症状の中では感覚障害が最も発症しやすい症状であることを解明した。国は否定するが、政治解決策の救済対象者は「水俣病」としてよく、被害者が少なくとも1万人を超えることを裏付けた。
水俣病には他にも多様な症状があると思われるが未解明で、患者はさらに多い可能性もある。実態把握をする気がなかった行政が一番悪いのだが、医学界も途中で道を誤った。国に協力してきた医学者の責任は重い。
いまからでも遅くない。不知火海沿岸の住民の健康調査、環境調査などに取り組み、被害の全容を明らかにすべきだ。

記者の目:水俣病公式確認から50年=平野美紀(水俣通信部)(毎日新聞 2006.5.9)
 
「95年に政治決着した時に名乗り出なかったのに、最高裁判決が出たからと手を挙げるのはずるい」「年をとれば誰だって感覚は鈍くなるし、フラフラする」
水俣で最近、こうささやかれている。矛先を向けられているのは、認定基準を事実上否定し幅広い救済を求めた関西訴訟最高裁判決(04年10月)後に熊本、鹿児島両県へ認定申請した約3800人だ。知人の男性は「水俣にはリウマチと痛風患者がいない」と皮肉る。「似た症状があれば水俣病として申請し、認定されたらもうけもの」と見る市民がいる。
この悲しい現実を生んだ責任は、チッソだけでなく、行政にもあるのではないか。水俣市とその周辺地域に住んでいた約20万人の健康調査は一度も実施されたことがなく、「どんな症状があれば水俣病なのか」という病像さえ定まっていない。認定されずに死亡した人や「発症は恥だ」としてひっそりと亡くなった人もいる。被害者がどれほどいるのか全く分からないことが、皮肉の背景にある。
水俣に住んで分かったことがある。外からは「水俣病の地」として偏見の目で見られ、内では「患者か否か」で区別されるのだ。しかも同じ被害者でも、手厚い補償を受ける行政認定者▽裁判闘争で勝った司法認定者▽95年の政治決着に応じた「水銀の影響を否定できない者」▽最高裁判決後に認定申請した3800人超の未認定患者、という格差がある。加害者と被害者が共存するチッソ企業城下町という特殊性に加え、行政が場当たり的救済策を積み重ね、補償・救済制度を複雑化させた結果だ。
公式確認から公害認定まで12年もかかった。排水を止める機会はあったのに放置し、不知火海有機水銀が垂れ流され続けた。最高裁判決は、高度経済成長期に日本を支えた企業の公害を「黙認」した国と県の行政責任を認め、認定基準を事実上否定した。しかし、国に基準見直しの意思はない。衆参両院は4月、「悲惨な公害を繰り返さない」とした水俣病に関する初の国会決議を全会一致で採択した。小泉純一郎首相も「談話」を発表しておわびしたものの、基準見直しや救済への具体的言及はなかった。しかも1028人の認定申請者が起こしている国家賠償訴訟について「訴訟があるんですか」と発言した。決議や談話には、熱意よりも「50年だから何かしなくては」という安易な思いしか感じられない。

日曜インタビュー:イタイイタイ病対策協議会名誉会長・小松義久さん/富山(毎日新聞 2006.5.7)
 
◇公害発生は予防よりコスト高、企業は肝に銘じよ
5月1日で熊本の水俣病公式確認から50年。行政の怠慢、企業論理の優先から来る悲劇を生む土壌は、近年の薬害エイズ事件を見るように、まだ、社会に残っている。また、公害を巡る教訓は今日の環境問題に通ずる。この古くて新しい課題をどう伝えていくべきか。水俣病と同じく「4大公害病」と言われたイタイイタイ病に長年取り組んできた「イタイイタイ病対策協議会」(富山市)の小松義久名誉会長に聞いた。【宝満志郎】


−−水俣病の被害者団体とも以前から交流していたと聞きますが。
小松さん 熊本の水俣病の被害者団体の活動を視察に行きました。また、新潟の水俣病の人たちの話も聞いて、「裁判で、企業の責任と病の因果関係をしっかり認めさせない限り、いくら行政などに救済を頼んでもだめ。まして亡くなった人たちに報いることはできない」という気持ちを新たにしましたね。それで、1968年に、第1次提訴。ほかの公害被害者団体の人たちとも情報交換してアドバイスしましたね。「弁護士におんぶにだっこではだめ」とか厳しいことを言ったこともあります。
−−イタイイタイ病は今も終わっていない。
小松さん そうです。まだ、カドミウムによる汚染農地の復元は終わっていません。それに何より、まだ、苦しんでいる患者さんがいます。汚染農地はまだ、多く残っています。換地も含めて復元工事が終わるのは、今のスケジュールだと、2011年度。復元工事が始まったのは、1980年です。30年の歳月がかかるわけです。イタイイタイ病が、史上最大規模の土壌汚染事件だったことがこのことからも分かります。そして、患者の不認定問題も続いています。現在、亡くなった方も含め4人が不認定とされ、公害健康被害補償不服審査会に審査請求を申し立てています。そのほかにも、4人が認定審査中です。水俣病でも同じことが言えますが、なぜ、こんなに認定審査は厳しいのでしょうか。「疑わしきは救済すべし」となぜ、ならないのか。厳密に判断しようとする「科学者の目」より、病人を救いたいとする「医者の目」を持ってもらいたい。
−−イタイイタイ病の教訓とは。
小松さん たくさんありますが、一つは、企業に対し法令などを順守するよう市民が目を光らせていくという一つの先例をイタイイタイ病問題は作ったことができたことです。勝訴後、鉱山と公害防止協定を結びましたが、この中で工場・鉱山の立ち入り調査権を私たちは得ました。年1回、鉱山に被害地域住民が科学者や弁護士を伴って立ち入り調査をし、今年で35回となります。住民が監視するばかりでなく、いろんなことを企業へ提案して、無公害企業にしていこうという取り組みですが、世界にも例がない画期的なことと自負しています。いろんな企業もイタイイタイ病の教訓を学んで欲しいものです。人の命と健康を奪うという行為に対する責めはもちろんですが、公害を出すとこんなにコストがかかり、予防した方がかえってコスト安となる。そういうことに気づいてほしい。
−−教訓を伝えるために取り組んでいることは。
小松さん 一般市民を対象にしたセミナーを毎年11月に開き、今年で25回を迎えます。また、イタイイタイ病運動史研究会を立ち上げ、私も含めた証言集を残そうとしています。また、イタイイタイ病の資料館建設計画を県議会に要望し採択され調査していますが、まだ、具体化していません。私もできるだけ、「語り部」をやっていきたいと思っています。6月にも愛知県から中学生が修学旅行で来るのですが、こういう次世代に教訓を伝えていかなければと思います。


イタイイタイ病
重金属のカドミウムを摂取することにより、骨軟化症を引き起こし全身の痛みと骨折の多発が特徴。岐阜県神岡鉱山(現神岡鉱業)から神通川に流出したカドミウムを長期間摂取した流域住民の間で発生。患者が「痛い、痛い」と叫び続けたことからこの病名で呼ばれるようになった。1966年に小松さんらがイ病対策協議会を結成し、当時鉱山を運営していた三井金属に対し68年に損害賠償1次提訴。71年、1次訴訟で富山地裁が原告全面勝訴の判決。72年に2審で全面勝訴が確定。
■人物略歴◇こまつ・よしひさ
1925年1月、富山県婦中町(現・富山市)生まれ。イタイイタイ病対策協議会も加わる神通川流域カドミウム被害団体連絡協議会の代表も務める。祖母と母をイ病で亡くし、半生を被害者救済に取り組んで来た。