水俣病問題に係る懇談会

arcturus2006-06-03

 
5月26日、第12回。

柳田委員 提言素案 懇談会主導と明言(熊本日日新聞 2006.5.27)
 
「事務局が出してきたものに修正を加えるのではなく、懇談会が最初から文章を書き起こさないといけない」。二十六日、環境省であった「水俣病問題に係る懇談会」の会合で、提言素案の作成委員を務める柳田邦男氏は取りまとめにあたっての「所信」を述べ、他の委員からも後押しする意見が続いた。
これまでの懇談会では、水俣病の補償や認定をめぐって委員側が再三、現行制度への疑問を投げ掛けてきたが、環境省は見直しを拒み続けている。
柳田氏は行政とは一線を画し、懇談会主導で素案作りを進めることを明言。それを示すように「補償と認定の問題は行政の考えとずれが出てくることは避けられない。それが大臣から直接頼まれた第三者機関としての役割」と述べ、環境省に“覚悟”を促した。提言素案は、作成委員の柳田、吉井正澄、亀山継夫の三氏が中心となって、各委員の意見を取りまとめていく。この日の会合でも「四千人近い人が新たに認定申請している。補償・救済の問題は核心とならざるを得ない」(丸山定巳氏)、「これまでの救済から漏れた人たちを救うことを基本にしてほしい」(屋山太郎氏)などの意見が出るなど、補償・救済問題をどう書き込んでいくかが大きな焦点となりそう。
今後、六月二十日の次回会合に向けて素案づくりが本格化する。「厳しすぎる」と批判が強い認定基準ついて、懇談会座キの有馬朗人氏は「まずは現行制度の中でできることを考える。そこから先に踏み込むことができるかの議論はこれから」と慎重な言い回しだ。
すべてが公開されてきた懇談会と違い、作業は非公開で進められるという。柳田氏が「筋論を我々の手で書かなければ禍根を残す」と意気込む一方で、省内からは早くも「どんな提言を受けようと、できることはできるし、できないことはできない」と突き放す声が漏れる。
提言づくりへイニシアチブを確保した形の懇談会委員。半面、事業主体の環境省が拒めば提言が“絵に描いたもち”になる危険性もはらむ。

小池環境相 懇談会提言取りまとめ「思い切って書いて」(熊本日日新聞 2006.5.30)
 
小池百合子環境相は三十日の閣議後会見で、同相の私的懇談会「水俣病問題に係る懇談会」で同省と委員側の意見対立が解けず、懇談会の委員主導で提言を書き起こす方針を決めたことに対し、「むしろ思い切って書いてほしい」と述べた。
懇談会は二十六日にノンフィクション作家の柳田邦男氏ら三委員を中心に提言素案を取りまとめることを決定。委員側は「行政の発想の中にないことまで踏み込む」としている。
小池環境相はこうした懇談会の意向に対し、「水俣病問題は省庁の縦割り(の弊害)など、度し難い日本の問題を抱えていると思うからこそ、懇談会にその分析をお願いしている」と強調。その上で、「思い切って書いてほしいし、期待している。環境省だけの問題ではないので、むしろ世にアピールしていきたい」と述べた。また、熊本県議会が県と合同で、一九九五年の政治決着と同様の救済策を政府・与党に要請しようとしていることに関しては「熊本県のアイデアについてはまだ知らない」と述べるにとどめた。

資料 「水俣病問題に係るチッソ等による補償金等の額について」
 

4月21日、第11回懇談会。
最高裁は認定基準を否定しておらず医学的にも妥当」と繰り返す環境省に亀山委員が「認定基準を守るか守らないかではない、最高裁判決で行政と司法の二重基準が生じていることは厳然たる事実、それにどう始末をつけるかが行政の責任」と批判されたそうです。

懇談会 補償財源初めて議論に 環境省の姿勢変わらず熊本日日新聞 2006.4.22)
 
「基準を動かしたら、チッソの補償金負担が膨らみ倒産に追い込まれるという情報がある。本当か」。ノンフィクション作家の柳田邦男氏が口火を切った。この発言から、議論の流れが変わった。水俣市の小規模通所授産施設「ほっとはうす」代表の加藤たけ子氏は、認定されたらチッソと協定を結ぶ「認定と補償の直結」を問題視した。「補償協定と結び付けずに、水俣病とは何か新たな知見を踏まえて考えるべきだ」
一方、一九九五(平成七)年の政治決着の際、認定されない被害者らが補償協定より低額での和解に応じた。当時、水俣市長だった吉井正澄氏は、その苦渋の選択をした被害者らとの関係を気にしつつ、「基準を見直した場合、チッソの経営が持つのか。国が支援する制度をつくるのか。それらを含め制度全体を見直さないと解決しない」と言い切った。さらに、熊本大名誉教授の丸山定巳氏は、大量の認定申請者への対応策を提案した。(1)メチル水銀の影響があるか(2)どの程度の補償が妥当かを二段階で判定する新たな認定の枠組みだ。
三者三様だが、現行制度では解決できないという認識は共通していた。これに対し長い時間に複数の補償・救済策が入り組んで成立した現行制度を崩したくない環境省
双方に挟まれ、何とか取り持とうとする座長の有馬朗人氏は「いったい環境省として国の責任をどう考えているのか」といら立ちをにじませた。
「絶望的な感じがする」。終了後、委員の一人はポツリとつぶやいた。それでも徹底論議にこだわる委員側は、認定基準を見直した場合、チッソの補償金負担がどれぐらい増えるかなどを具体的に示すよう同省に“宿題”を出した。議論の火種は残った。


第10回。
第10回 会議録(環境省 2006.3.20)アップに2ヶ月以上かかるんです××

屋山委員
柳田さんの考え方には賛成なんですけれども、例えば、新しい機関をつくるということは、今それが結論になったというと、ただ問題を先に延ばしたということになるので、私は、将来的には、今度の水俣病をどう解決するかという具体的なものを出して、恒久的にはこういうことも考えなさいというのは、付録と言っては悪いけれども、それが出てくる。そうでないと、これで新しい機関をつくることになりましたというのでは、10回我々がここに来た意味がないと思うんです。私は、今までいろいろつぎはぎ、つぎはぎ、あるいは10年休んだとか、いろいろなことがあって、結局これは基本的には国の責任なんだ。だから、先ほど柳田さんも触れられたけれども、環境省がほかの役所と一緒になってこの問題を押さえ込もうという発想に立っているとすれば、役所の存在価値はないので、要するに環境省というものはそういう被害者をとことん助けると。例えば、エイズのときだって菅さんはそれを決断したではないですか。そういうことがなければ、この役所はほとんど意味がない。それこそ、柳田さんのおっしゃった新しい機関をつくって、こんな役所はつぶした方がいいと思うんです。ですから、私は、あなた方がここで万難を排して今までの問題にけりをつける、そのためには他の役所とも対立する、小池さんにも働いてもらう、そういう覚悟をしないと意味がないと思う。
今私は、この責任の所在とか、いろいろなことでさんざん考えて、結局出さなかったというのは、大きな時代の流れがあるので、そこで過去の問題で、あいつが悪かった、こいつが悪かった、ここで失敗したということは、その検証は必要ですけれども、その問題に終始していたのでは何もないと思うのです。だから、私はここで高い補償をする。要するに、何で救済なんだというと、結局金銭補償しかないわけでしょう。だから、そこで高い補償をする。そうすると今までの人は非常に割を食っているわけだから、つじつまが合わなくなる。そうしたら、その人に追加的に補償するといったことをやらないと、例えば「もやい直し」ということを一つとっても、それは非常に補償についての不平等とか、ねたみとか、そねみとか、そういうものがあって言っているわけです。それを「もやい直し」という何か教育的な問題で解決しようとしている。私に言わせれば、それはごまかしだと思うんです。ですから、みんなが満足する補償、これは私はほかの問題でもそうだけれども、国家が賠償してしかるべき問題だと思うんです。それから、これから公害が起きたら、国家が賠償するという大原則を打ち立ててやる。それは企業が悪かったら、国家が賠償した後に企業から取るとか、それをやらないと、吉井さんかだれかがおっしゃったけれども、これはもたもたしていたら、たしか10年時間を稼いだら問題が消滅してしまうんだ。だから、今何でここへ私が来る気になったのかというのは、問題を解決したいと思うから来たので、だから問題を消滅させようなどと思ったら大間違いですよということを申し上げたい。


吉井委員
日本社会全体の問題ですけれども、日本国民が現在の豊かさを享受しているのは、水俣病発生のころからの高度経済成長のおかげであることにはもう間違いはないと思います。しかし、その高度経済成長のひずみとしての公害があるわけでして、同じ国民でありながら、もがきながら生命を失った、あるいはこの豊かな社会の中で楽しいはずの人生を、きょう見えておられます胎児性の水俣病患者さんみたいに、全部棒に振ってしまった、こういう悲惨な方々がたくさんいるわけで、このように悲運な人々が生まれた事実というのを国民全体が直視する必要があると思います。国民の豊かさは悲惨な人を踏み台にしている部分があるのだ、それで国民はその被害者に温かい手を差し伸べるべきだという認識が、私は必要だと思います。その認識を持たせる手段は、国の広報が大切ですし、それからマスコミの役割というのは非常に大切です。今、地元水俣では水俣病問題はたくさん毎日押すな押すなで出ておりますけれども、この東京とか大都市では全然ないわけです。この問題は大都市の人たちにしっかりと教えるべき問題だと思います。そういう意味で、今までは水俣病関係者だけの論議が50年間続いてきたわけですけれども、初めてこの懇談会は、水俣病を外れたいろいろな分野の有識者が集まって論議をされる。この論議というのはすごく大切だと、これは全国民の意見だとして受け取ってもらいたいなと思います。
それから、最後の最高裁判決を踏まえ、反省と謝罪を前提とした水俣病対策をどのように考えるかという点でありますけれども、私は謝罪とは過去の非を認めることだ、そして謝罪によって敵対関係に区切りをつけることだ、そして新たな協調関係をつくりたいと、前向きの姿勢の表明だと思います。謝罪の内容は、何を非と認めたのか、何が間違っていたのか、これは具体的に言及されるべきだと思います。そして、反省すべき課題、検証課題が明確に示されなければならない。その反省というのは、過ちの実態を徹底的に検証する上になさるべきものだと思います。何回も謝罪をしたり、何回も謝罪を要求されたり、謝罪がもとで混乱したりするのは、その謝罪の要件が満たされていないからではないかと思います。
行政みずからが徹底的に検証する必要があると、懇談会で意見が続出いたしておりますが、これはなかなか難しいと思います。なぜ難しいかというと、第2回で指摘いたしましたけれども、現在の環境省は国を代表して責任を背負い、そして謝罪をされておりますけれども、環境省は拡大責任に罪もないのにしりぬぐいをしているというお気持ちがあるのではないか。それから経済産業省厚生労働省は、環境省という担当があるという気楽さがある。そして、続々と新しい事件が発生して、50年前のことにはもうかかわっていられないという空気があるような気がしてなりません。それは、公害で苦しんだ人は50年間苦しみ続けているわけですけれども、チッソの社長を初め幹部はもう何代もかわっているし、国は3年ごとにかわっておいでだから、その当時の人はもう過去の人です。それで緊迫感がない。それで事務的に処理される。そこにあるのではないかと思います。
それからもう一つは、個人と公人の使い分け、これが何とも不可解でならないものがあります。例えば、与謝野元通産大臣が国会で、「当時の通産大臣は企業責任、行政責任にぬかりがあったと反省しておられる」と答弁されておりますし、菅直人厚生大臣は、「歴代大臣はやめた後で、自分は責任を認めたかったが、なかなか言えなかったと言われるのを聞いている」という答弁をされた。そしてその上で、「行政は患者・一般人の感覚を大事にして、過ったと思えば変えていく勇気を持つべきではないか」と述べられております。なぜ歴代大臣が率直にその責任はあると私的には思いながら、公の場でこれが言えなかったのかです。大臣を縛っている、良心を縛っているのは一体何なのか。責任のある大臣の勇気をしぼませ、すくませた、その見えない呪縛の本体、これに光を当てないと、水俣病の本質は見えてこないのではないか、そのような思いがしてなりません。その本質とは何なのか。それは私にもよくわかりません。これはぜひひとつ内部で検証していただきたい。そのことが現在も続いているから、水俣病の問題は混乱していると思います。その根本的なものを解明していただきたいという気持ちです。


加藤委員
まず、中身を伴わなければいけない。中身を伴わないということは、現に被害を受けている人が、自分が失ったものは取り戻すことはできないのですけれども、それに少なくとも何分の1かでも満足できる気持ちになれる、そういう方策がちゃんと講じられることだと思います。そして、特にこの間謝罪ということで、この50年の節目に水俣に総理に来てほしいとい気持ちが患者さんたちの中に実際あります。だけれども、総理が来るときに、ではその中身というものが今本当にあるのかと言えば、きょうもこの懇談会の流れを実際暗澹たる気持ちでここにいざるを得ません。実際に現地の患者さんが思うことは、前回も私は申し上げたのですけれども、たとえ中身が伴わなくてとまでおっしゃっているんです。自分たちのこの被害というのは、この国が高度成長していくためにその犠牲にさせられたこの自分たちに一度きちんと国の責任において謝ってほしいという、このお気持ちから皆さんおっしゃっているのです。では、中身を伴わなくて総理が来ていいのかと言ったら、きっとそんなことはないのです。そのことを本当にこの国は深く考えてほしいと私は思っています。
それで、あえて今からちょっと言わせていただけば、きょうというこの日、この懇談会に最初から各委員の方が非常に緊張して臨んでおられると思います。私自身も非常に緊張しております。それはなぜかと言えば、3点あるかと思います。
まず、きょう胎児性の患者さんたちが水俣から、この懇談会ではどういう話をしているのか、自分たちにかかわりのあることがどのように話されているのか、そのことをこの場に身を置いて聞いてみたいというお気持ちから来られています。そこに身を置かれているだけで、やはりこの懇談会で何か一つ発言するときに、その発言の重みを私は非常に感じます。そのときに、これから先、本来この懇談会に与えられた課題は、50年の節目で、少なくとも水俣病の51年目から混乱、困難をもたらさないということです。それは現実の問題を解決するということですけれども、このことがなかなか見えない中で、なかなか発言ができない。
それからもう一つ、きょう3月20日は、1973年第一次訴訟の判決が下された日です。その判決の中で裁判長がおっしゃった一つの中に、公序良俗に反するような事態を招いた、そういう見舞金契約ということが厳しく指弾されたと思います。この公序良俗ということを考えたときに、残念ながら、今この国の環境省に、水俣で多くの方たちが新たな被害を訴えている状況に対して、これだけ委員の方たちも、常識的に考えてなぜこのようなことが起こったのかということを繰り返し述べておられるのですけれども、これに対して一向にこの10回の懇談会の積み重ねというものがどうも反映されていない。このこと自体、まさにだれが考えてもおかしいなと思うことがそのまま進んでしまっているという状況だと思うのです。屋山委員からも自分が10回参加したのは何だったのかという発言もあったかと思います。その議論を少なくともきょう今始めてほしいと思っています。実際には、やはり死んでいく被害者よりも企業の利益が優先され、その中で国民の生活を守る行政が機能しなかった、異常な事態に敏感になれなかった行政があったという、このことは大きな水俣病の教訓なんです。このことを今生かすことがこの懇談会に問われているのだと思うのです。


亀山委員
昨年の4月に環境省が発表された「今後の水俣病対策について」という一文の中には、「昨年10月の関西訴訟最高裁判決において国及び熊本県の責任が認められたことを受け、規制権限の不行使により水俣病の拡大を防止できなかったことを真摯に反省し」云々と書いてある。実は私はこれだけのことを確認するために前回ご質問を申し上げたのですが、思いもかけず連帯責任などという民法の講釈を承りまして、へえと思ったのですが、伺っていると、要するにチッソが払うのだから国は実際上払わなくていいのだということの方にどうも主眼をおいておられるようだ、そういう気がして、実は私は愕然としたわけであります。最高裁判決を踏まえるということは、まず第一に、国の責任、不法行為責任が認められたということ、そしてその不法行為責任が認められたということは、当然のことながら、連帯であろうが何であろうが、損害賠償の責任があるということなんです。その損害賠償の責任があるということを踏まえるということは、その訴訟の原告になった人、訴訟はその原告になった人しか関係しないわけですけれども、それを含めて水俣病の患者と言える人々すべてに対して国は責任があるということを実質的には認めたのだということだと思っていただかなければ、私は困ると思うんです。それがまず非常に大きい第1点です。
その次に、認定基準の問題があります。この認定基準の場合に、判例解説などを引かれまして、公健法の認定基準と不法行為の認定基準とは性質が違うのだから、これは別段どちらも両立するのだ、だから変える必要はないのだということを盛んに強調されております。理屈はそのとおりなんです。両方ある。しかし、両方あるということは、公健法の認定基準ではない基準で国の不法行為責任が認められ、それに対して賠償義務が課せられているということ、つまり現実にダブルスタンダードが生じているということなのです。このことをもっともっと深刻に考えていただかなければ、現実にあの判決によってダブルスタンダードが生じてしまったわけです。その生じたダブルスタンダードは、いや、公健法のあれを変えるつもりはありませんと言うだけで済むのかどうか。もしそれで済むとお考えならば、今訴訟が起こっているところはまた争って、そこでまた認定基準を裁判所に認定してもらおうかということをお考えになっているのだろうかという気がするわけであります。だから、ここでも私は最高裁判決を全く踏まえていることにならないという気がいたします。
それから、ついでながら申し上げますが、そのダブルスタンダードのうちの一つの公健法の方でも、最高裁判決が出たことを恐らく契機として、多数の人がまた審査を申し立てられています。ところが、私はここへ来て本当に驚いたのですが、その審査会の審査が全然行われていない。それはもう何年になるのでしょうか。1年半以上。それは要するにほうってあるわけですね。どうも環境省は、これは県の責任で審査会を構成しなければいけないのに、それができないから打つ手がありませんといったことを言われるようでありますが、そんなことでいいのでしょうか。ではこの審査会が動かない理由は何だというと、要するに委員が構成できないということらしいです。では何で委員が構成できないか。こういうことを引き受けてくださる人が10人ぐらいあってよさそうなものなのだけれども、全然そういうのが起こらないのは一体なぜなのでしょうか。これは、まさしくダブルスタンダードの問題が国民の常識と反して、つまり公健法の基準とは違う基準で不法行為責任を認められている人がいるという事実を、目をつぶっているとまでは言いませんが、それをよそに置いておいて、現在の基準は現在の基準で断固守るんだというやり方が一般の常識に反しているのではなかろうかということを非常に強く疑わせるものなのだろうと思うのです。いずれにしましても、最高裁判決を踏まえてと言いながら、私の感じによれば、最高裁判決を踏まえない、最高裁判決では本当は言っていないことを踏まえておられるような感じがする。
それは大問題なのですが、しかもその後新たに出てきた、しかもその数が半端ではない、審査の申し立てと提訴と合わせれば4,000人ぐらいのものが出ていて、それに対して何の具体的な対策もおっしゃることなく、おっしゃっているのは医療費の負担とか保健手帳のあれとかいうことなのですが、これもまた私としては非常におかしなことをされているなと思うんです。この横長のフローチャートを見ますと、公健法の認定申請者のうち、保健手帳を申請するという人たちには、所定の検査を経てそういうものができる。しかし、申請者については、申請の方をとるか、保健手帳の方をとるかのどちらかを選択すると書いてあります。そうして、一方においてその認定申請の方は1年半もほったらかしてあるということは、これは非常にどぎつい言い方をすれば、認定申請の方を抑えておいて、それを放棄させて保健手帳の方へいかせようと考えているのだと言われてもしようがないような状況ではなかろうかという感じがするわけです。
ということで、私はこの現在の最高裁判決を踏まえてとおっしゃる環境省の今まで言われてきた考え方には全く不信の念を持っております。したがって、この点が、現在ある、現在また既に生じてしまった、今までの方でもいろいろの問題がまだ残っているのだと思うのですが、しかも新たに何か現にどうだというのがあらわれているのに、これをほうっておいて50年の節目にどうのこうのと言ってみても、これは前から言っているのですが、何もならないではないかという感じがいたします。


亀山委員
これはいろいろな考え方があると思うんです。だけれども、この点でこそ先ほど来ほかの委員の方々が言われていますように、水俣病というのは、経過を見ておりますとだれでもわかることは、行政の過誤ということになっております。確かにある意味で過誤なんですが、これはしかし大きい目で見れば、日本の産業政策、高度成長を支えるために一定の人が犠牲になったということだと言わざるを得ない。そういう意味では、こんなところで刑事の考え方を持ち出しては恐縮なんですが、これは過失犯というよりは故意犯に近いわけです。しかし、それはそれで、そういう生きるために、高度成長というか、日本の経済の成長を続けるためにやむを得なかったという面があるんだろうと思います。現に私ども、要するに戦後の混乱期からずっと何とかかんとか生きてきた者にとっては、まさしくその恩恵をこうむっているわけです。ですから、そのこと自体はどうのこうのというわけではないのですけれども、そういう状況なのだったら、その犠牲になっている人の方にはやはり普通の過失責任とかそういうこととは全然違う次元の手厚い補償、それから手広い救済が当然考えられてしかるべきであると、そういう考え方をとるのだということが一番大切なことだと。そういう考え方をとれば、今までの公健法による認定制度もさておき、それから現在のダブルスタンダードになった基準もさておき、そういうものをすべて、前回私が申しましたように、一度もうリセットしてやり直して、今までのものを広範囲にかつ手厚く解決するという方策を考えるべきであろうと思います。
それともう一つは、これも柳田委員などがおっしゃっていますが、そして私も先ほど言いましたが、これは訴訟の原告だけでなく、水俣病患者の皆さん、犠牲になった皆さん方全体に対して不法行為責任が認められたのだと実質的には考えなければいけないわけです。そのことを考えれば、全体に対して何かできること、例えば相当額の基金を設けて、いろいろな事業をやることができるようにするとか、そういったことを当然考えるべきではなかろうか。つまり、個々のことに補償するということも大切なのですが、それも今となってはなかなかできにくい、あるいは不公平とかいろいろな問題が起こってくるかもしれません。そういうことも大切ですが、全体として何かそういう水俣病のあれを、記念と言ってはちょっとおかしいのですが、そのような基金の創設ということも考えていいのではないかと思っております。


炭谷事務次官
認定基準の見直しや、それを前提とした専門家会議等の設置についてでございます。関西訴訟最高裁判決でも認定基準の見直しを要請しておらず、公健法の認定基準の合理性について何ら判断を加えていないこと、直接関係する棄却処分取消訴訟について、平成9年の福岡高裁の確定判決がございますけれども、これは認定基準を是認しているという判決が出ているところであり、環境省として、認定基準を現在見直すことや、その検討を行うための専門家会議などを設置することは考えていないところでございます。
また、今までの懇談会の中で、環境省として最高裁判決をどのようにとらえているのかという厳しいご質問があったかと思います。環境省といたしましては、最高裁判決で問われた責任について重く受けとめており、判決当時に発表した大臣談話、また昨年4月に発表した今後の水俣病対策においても、規制権限の不行使により水俣病の拡大を防止できなかったことを真摯に反省し、すべての水俣病被害者に対して謝罪の意を表明したところでございます。そして、行政として今何をすべきかを検討し、早急に施策を講じていくことが、最高裁判決で問われた責任を果たしていくことであると考え、関係県と協議し、被害者団体の方々や地元市町村などから意見を聞いた上で、「今後の水俣病対策について」を取りまとめて打ち出し、昨年の10月の保健手帳の再開など、これに基づく行政施策を逐次実施しているところでございます。


亀山委員
余り申し上げることもないんですが、司法の問題が絡んでいるところがあるものですから言いますが、「最高裁判決でも認定基準の見直しを要請しておらず、公健法の認定基準の合理性について何ら判断を加えていないこと」とありますが、これは当たり前のことなんです。公健法の棄却処分取消訴訟であればまた別で、損害賠償訴訟ですから、こんな余計なことに判断を加える必要は毛頭ないわけです。だからといって、それに何も触れていないから最高裁判決でも現在の公健法上の認定基準が全体の水俣病を判断する上でのすべてについて通用する非常にいい基準なのだと言っているのかといったら、そんなことも全然言っていない。だから、ここは余り理由にならないのだと思うんです。ですから、公健法上の認定基準を見直すことは考えていないということはよくわかりました。私はこれも少なくともちょっと検討した方が世間体はいいのではないかなと思いますけれども、それはわかりました。
しかし、全体としての問題解決のために、全く新たな視点から水俣病の被害者をどうとらえて具体的な救済策を講じたらいいかということは、これとはちょっと離れた立場でお考えいただきたい。また、そういう点は、少なくともここに書いてある環境省の考え方の外の問題ですから、我々が考えても一向に差し支えなさそうだなと。それをどの程度取捨選択されるかは、これはこういう懇談会の提言を受けた方の責任問題だと思っております。


丸山委員
これは、先ほどおっしゃったように、現状こうしていますということなんですけれども、本気でこれで解決できる見通しを持っておられるのかどうかということです。結局、行政に対応してもらえなかったら裁判という道もありますからということだとしたら、現に今新しく認定申請を膨大な数で出してきている人たちなどは時間との競争で生きているわけでしょう。行政組織というのは、人がまたかわって、何年かかってもやればいいということなんですけれども、まさに時間との競争で生きているような人を相手にしている。そうしたら、少なくとも一定のこの期間までにはとにかくきちんと解決するんだというところまで提示しないと、これは非常に無責任だと思います。現に、例えば申請者は、多分かなり1年を過ぎた人が多いんです。ですから、治療研究事業で医療費はちゃんと負担してもらっているから、新保健手帳に加わらなくても実質的には変わらないわけでしょう。何ら認定申請を取り下げて新保健手帳にかわったからといって、その当の申請者自体の条件というのは変わらない。もう治療研究事業で1年たったら医療費はちゃんと面倒を見てもらえるということであると、申請者の人たちも何も申請まで取り下げてこちらに移るとかということにはならないでしょうし。だから、そういうことを現実的に判断して、この方策で近い将来に解決のめどがつくと本気で思っておられるのか、そこの現実認識が非常に甘いし、まず第一に、最初に申しましたように、今現在日々生きている、それでも亡くなっていっている人もいるわけですが、そういう人たちを対象にしているということを忘れてはならないと思うんです。行政組織としては5年、10年、また裁判で決まったら対応しますということかもしれないですけれども、それは余りにも国民に対して国家としては無責任な態度だと思いますので、ちょっとここの点は、いずれにしろ、今現状説明で、これ以上は今のところ出てきていないということであれば、なおのことこれは懇談会としての取りまとめということになりますと、これを前提にしての取りまとめなどというのはあり得ないと思うんです。ですから、これは最終的な懇談会としての取りまとめ方をご相談しなければいけないかなと思います。


柳田委員
今、次官のご説明によりますと、この懇談会は10回にわたっていろいろ参考になるところもあったので、あちこちつまみ食いさせていただくと。しかし、基本的なところは、できることとできないことが行政にはあるのだから、そこは了解してくれということは、要するに認定制度その他の救済問題については現状お役所がやっていることに任せてくれと言うに等しいわけだし、それから大規模な組織改革的な提言についても、これは行政では恐らくできないという方に入るのでしょう。つまり、10回、何の意味もなく、ただご意見を拝聴しました、ところどころつまみ食いさせていただきますということで終わるのだなということで、大変絶望的な気持ちになっております。
私が委員を委嘱されたときに、「この懇談会と並行して法的委員会もつくる。そちらでしっかりと法的根拠について検討して、我々の懇談会の参考資料を提供する。だから、ぜひ大局的な見地から検討してほしい」と言うので、一たん断ったけれども、引き受けました。ところが、いつの間にか法的研究会は説明もなく消え失せて、そしてこの会で亀山委員がしばしば質問したようなことに対してものらりくらりでよくわからない話しか出てこない。一体こういう中で、では我々はどういう提言をまとめるべきか、ぜひ座長に一任したいと思いますけれども。