鹿児島

 

熊本県側を中心に展開する水俣病事件史の中で、鹿児島県側の被害がクローズアップされることは少なかった。その分、被害者の救済がさらに遅れたとの指摘もある。

 
 

「獅子島の会」発足 全員救済目指し活動 鹿児島・長島町( 2006.8.3)
 
会員のほぼ全員が、家族や親せきに認定患者や一九九五(平成七)年の政府解決策に伴う総合対策医療事業の医療手帳所持者がいるという。会員のうち約十人は患者認定か同医療事業に申請したが対象外となった。残りは初めて認定申請している。
同島のコミュニティー施設であった発会式には、会員や家族ら二十五人が出席。会長に漁業滝下秀喜さん(46)を選んだ。滝下会長は「水俣病を診てもらえる病院がなかったり、島外への通院費がかさむなどの事情を抱えている。同じ生活環境の被害者で要求をまとめることが必要と考えた。全員が納得できる救済を勝ち取りたい」と話している。

 
 
熊本日日新聞連載『水俣病50年 不知火海を歩く(鹿児島編)』より。

(1)“最新”の認定患者<上> 漁師町、父娘でひっそりと… 「歌うとが、楽しか」(2006.6.26)
 
女性は、二〇〇〇(平成十二)年に水俣病と認定された。この女性以降、行政からは誰も水俣病と認定されておらず、いわば全国で”最新”の認定患者。年齢は四十五歳。一緒にいたのは父親(74)だ。
水俣病患者を長年診察してきた医師で熊本学園大教授の原田正純さん(71)の手元に、一枚の古いカルテが残っている。約三十年前、この女性を診察したときのものだ。「知的障害もあり、言葉もつたなく、運動障害もあった。どうみても典型的な胎児性患者だった」と原田さん。
地元の小学校に入学したが、五年生からは特殊学級に移った。中学校を卒業すると、愛知県の紡績工場に就職。しかし、長くは続かなかった。原因は、いじめ。二十歳ごろ再び同じ工場に勤めたが、二、三カ月でまたすぐに辞めてしまった。女性は、ゆっくりと言葉をしぼり出すように過去を語る。「先輩に、ほっぺたをたたかれたり、ぞうきんで、顔をふかれたり、したとよ。ひとのもんを、おっとった(盗んだ)て、言われたり…。布団かぶって、声出さんで、泣いたよ。もう、行こごつなか」。少しでも聞き取りやすくしようと、懸命に口を大きく動かした。
その後、短期間授産施設に通ったりしたほかは、入退院を繰り返した。今は、週に五日ほどデイケアに通う。

(2)“最新”の認定患者<下> 施設に入るのは寂しい(2006.6.27)
 
父親が認定患者で、自分も生まれつき大きなハンデキャップを抱えていた。約三十年前、医師の原田正純さん(71)の診察を受け、胎児性患者と診断された。それなのになぜ、女性はずっと認定申請をしなかったのか。
「十年ほど前に死んだ母ちゃん(妻)は、水俣病ば嫌がった。自分も体が悪かったが、いくら言ってもずっと申請せんやった」。父親は、仏壇の上に飾られている妻の遺影をチラリと見た後、古い記憶をたどるように、ぼそりぼそりとつぶやいた。「平成になるまでは、水俣病になると嫁に行けんとか言われとったで。原田先生の診断書も持っとったのかもしれんが、娘の将来のことば心配して、申請せんやったとかもなぁ」
女性は比較的体調がいいと言うものの、「しびれの薬ばもろうとる」と言うと、ゆっくりと立ち上がって棚から薬袋を取り出した。歩幅が狭く、ちょこちょこと歩く。取り出した飲み薬は、朝昼晩にきちんと分けられていたが、一回分は二十錠近い。「デイケアは楽しい」と、明るく語る女性。しかし、これからのことを尋ねると顔を曇らせた。「父ちゃんも、いつ死ぬか、分からん。この家に、一人で住むわけにもいかんやろうし、どっか、施設に入らなんかも…。でも、それも、寂しかとやって」

(3)初めての患者 心の傷今も生々しく(2006.6.28)
 
「出水市に“水俣病”?/漁民に類似症状現る」
鹿児島県で初めての患者発生は、一九五九(昭和三十四)年十一月十四日の熊本日日新聞に、こんな見出しで伝えられた。翌年二月、厚生省(当時)の水俣病患者審査協議会は出水市の漁業者二人を水俣病と断定した。「出水の患者も真性」。初出の記事と比べて大きな見出しが、底知れぬ被害への驚きを物語る。
その一人、釜鶴松さん(故人)が暮らした同市の前田地区。熊本県境に最も近い集落で、水俣市の患者多発地区・袋とは小さな川を挟んで隣り合う。家々が海岸線をなぞるように並ぶ。
腕自慢の網元だった釜さんの発病は、水俣病の公式確認より前の五五年ごろ。熊本側の患者発生と時期に大きな差はない。手の震えに始まり、数年後には手足の震え、しびれに発展。間もなく足がもつれ、言葉も分かりづらくなった。湯飲みや吸いかけのたばこを無意識に落とした。ついには寝たきりとなった。
そのころ、六十世帯ほどの半農半漁の集落には、ほかにも身体の不調を訴える人が出始めていた。「魚も捕れんし、捕っても売れん。それでも魚が売れんくなるちゅうて、みんなじっと我慢しとった」。隣の集落の井島政治さん(81)=水俣病平和会会長=は記憶をたどる。
「世論に従ってくれ」。そんな声を振り切って、家族は釜さんを水俣市の病院に入院させた。すぐに水俣病と認定されたが、わずか八カ月後の六〇年十月、帰らぬ人となった。十日ほど前からは、手足も動かさず、何の反応も示さなくなっていたという。
六八年、政府は水俣病の原因をチッソ水俣工場から排出されたメチル水銀化合物と断定。それまで原因不明を理由に、やむなく低額補償を飲まされていた患者は、初めてチッソを相手取る損害賠償請求訴訟に立ち上がった。患者側が勝訴し、認定患者に対する補償協定締結につながった一次訴訟(六九〜七三年)。亡くなった釜さんの名前も原告の中にあった。一人息子の時良さん(69)は、裁判の中で訴えた。「カネはいらん。おやじと一緒に仕事がしたかった。チッソは本当に自分が悪かったと言ってほしい」
梅雨入り後の雨の日、不知火海と寄り添うように建つ時良さんの家。「昔のことは思い出したくもない。もう忘れた」。窓の先に広がる海に視線を移して、時良さんはつぶやいた。そして、わずかな沈黙の後にこう続けた。「思い出せば、腹の立つことばっかり」。心に受けた傷は五十年を経てもなお生々しい。

(4)出水の会<上> 見捨てるわけにいかん(2006.6.29)
 
「おやじは水俣病じゃなかろうかと疑ってはおったが、認定されてみると、何とも言葉にできん複雑な気持ちやった」と尾上さん。翌年、十代のころから指のしびれと頭痛に悩まされてきた尾上さんも認定申請。ほかの家族も後に続き、最終的には母と尾上さんら兄弟四人、同居していた兄嫁が認定された。
自分の認定申請と時を同じくして、尾上さんは認定申請者の掘り起こしも始め、七六年には仲間たちと出水の会を結成した。当時、出水市周辺には認定申請に必要な診断書を書いてくれる医師がいなかったため、検診を受けるのは熊本市の熊本大か、鹿児島市の鹿児島大。車での送迎で、運転はマツミさんの役目。マツミさんは「臨月のときも連れて行ったとです。おなかがハンドルにつっかえとったが」と笑う。
九五年の政治決着の際、出水の会は団体加算金の対象とならなかった。「熊本県が地盤じゃなかったから、軽く見られたとかもしれん」と尾上さん。しかし、団体として和解に乗らなかったことで、出水の会は政治決着後も活動を続けることができた。

(5)出水の会<下> 電話、来訪ひっきりなし(2006.6.30)
 
よく晴れた日の朝、長崎県佐世保市の七十代の老夫婦がこの事務所を訪れた。不知火海の汚染がひどかった一九六三年まで出水市に住んでいた夫婦は、手足のしびれや指の変形に悩んでいるという。出水の会が認定申請の世話をしてくれるという話を聞き、午前三時に自宅を出発、車で六時間かけてはるばるやって来た。夫婦の生い立ちや症状を詳しく聞いた尾上さんは、「あんたたち、水俣病に間違いなかよ」と言った。話の途中で妻の口から少しよだれが垂れたのを見逃さず、「口の周りがしびるるとも典型的症状じゃっど」。そして、水俣病の認定申請の手続きについて説明した。

(6)橋口三郎さん<上> 風評被害恐れた漁協(2006.7.1)
 
鹿児島県出水市住吉町。水俣市と隣接するこの漁港には、水俣病事件史の「顔」がもう一人いる。水俣病被害者の会全国連絡会の幹事長、橋口三郎さん(80)。三次訴訟(一九八〇年提訴)の原告団長として、水俣病裁判で初めて国家責任追及の先頭に立った。九五年の政府解決策の立役者の一人でもある。
蒸し暑い日の午後、橋口さんと住吉町を歩いた。自宅から名護港までの百メートルほどの道のり。狭い路地にひしめくように家々が並ぶ。「昭和五十年代くらいまでは、人口の九割が漁師、残りは仲買人か鮮魚商。住民のほとんどが水俣病と無関係ではなかったはず」。家々を眺めながら橋口さんは話す。「みんな水俣病はなっちゃならん病気、恥だと思っている。カネ欲しさと思われるのが嫌なんだろう。今でも話しにくい雰囲気はあっとよ」
「流れ」と呼ばれる、うたせ漁が盛んだった住吉町に昭和三十年代始めごろ、一つのうわさが流れた。地区では盆までの「夏流れ」が終われば、九月からの「秋流れ」に備えて近隣の温泉地に半月ほど湯治に行くのが習わし。しかしそのころ、体調を崩して湯治から帰ってくる漁師が相次いだという。漁師仲間を通じて水俣で起きている「奇病」のことは知っていた。でもその時はまだ、「温泉にゃ行くもんじゃなかよ」と軽口で済んでいた。しかし数年後、町内から水俣病の患者が出た。その日のうちに漁協幹部が入院先の水俣市の病院から内密に連れ戻した、という話が聞こえてきた。患者発生による漁業への風評被害を恐れてのことだった。
漁師たちも思いは同じだった。磯のカキは割れて腐臭を発していた。魚は海をフラフラと泳いでいた。しかし、漁師が魚の鮮度を見極めるエラは新鮮さを示す真っ赤な色をしていた。魚が水俣病の原因とは信じ切れなかった。「それでいいのかと思いながらも、漁協がしたことを肯定する雰囲気があった。隠そう、隠そうとばっかりな…。自分もその一人だった」。橋口さんは、自省を込めて明かす。だが、間もなく水俣病は「人ごと」ではなくなった。近くに住んでいた義父が劇症型の症状で苦しみ始めた。よだれを流し、言葉にならない声を発した。それでも「水俣病」を名乗り出ることはなかったという。
橋口さんは七四年、水俣市にあった水俣病被害者の会の働きかけで、同会の出水支部を結成。集団検診も実施した。鹿児島県内では初めての被害者グループの結成だった。「被害を隠したいという住民の気持ちを行政が逆手に取ったのか、それまで私たちは何の情報も与えられなかった。それが鹿児島側の救済遅れにつながったのではないか」。橋口さんの疑念は今も晴れない。

(7)橋口三郎さん<下> 「もらい公害」行政言い訳(2006.7.2)
 
水俣病はもらい公害」。鹿児島県の行政、医学関係者の口から、こんな言葉が出ることがある。水俣病被害者の会全国連絡会の幹事長、橋口三郎さん(80)=出水市住吉町=は「被害を隠したい、という住民の気持ちを行政は利用した。そしてこの言葉で言い訳してきたのではないか」と感じることがある。
同県が出水市などで一九七一(昭和四十六)年から七四年にかけて実施した住民健康調査。特有の症状を持ちながらも、水俣病を否定された知人は「よかった」と喜んだ。橋口さんらが結成した水俣病被害者の会出水支部の集団検診で認定申請を勧められた人は、市役所の職員に症状を尋ねられて答えると、「それは水俣病じゃない」と申請を拒まれたという。
水俣病についてきちんと理解している人は誰もおらんかった。認定されて補償金で家を新築したら、近所から白い目で見られて首をくくった人もおる。地区におられんごとなって遠くに引っ越した人も…」。橋口さんは、自宅の居間からガラス越しに近所の家並みに目を移す。水俣病風評被害への恐れは、患者発生の事実を隠す力として作用してきた。それはまた、「患者」になれば地域で暮らせなくなることも意味した。
そのころ、一次訴訟の患者勝訴と補償協定の締結(七三年)で、鹿児島県の認定申請者も急増。一方で、認定は進まず保留者が積み増される状況が続いていた。
「裁判しか救済の道はない」。八〇年、水俣病裁判で初の国家賠償請求訴訟となった三次訴訟を起こし、橋口さんは原告団長として一陣約八十人の先頭に立った。ただその時、鹿児島県の原告は全体の一割程度にすぎなかった。「当初は、裁判までしなくても認定されるという行政への期待がまだまだあったんでしょう」。橋口さんはそう受けとめている。
橋口さんらは九五年の政府解決策を、「苦渋の決断」で受け入れた。しかし二〇〇四年十月、関西訴訟の最高裁判決で、橋口さんらが追及し得なかった水俣病の被害拡大に関する国家責任が確定。熊本、鹿児島両県で再び認定申請者が急増、滞留する事態となっている。新たな国賠訴訟も起こされた。まさに「いつか来た道」だ。
昨年末、脳こうそくで倒れた。「薬が効いたのか、今は調子いい」と話すものの、すり足で一歩ずつ歩く。「私も八十歳。もう五十年も水俣病と付き合ってきた」と嘆く橋口さん。「被害者を水俣病と認めて補償する。なぜこれだけのことができないのか」。いつもの柔和な表情が、また険しくなった。

(8)獅子島<1> 被害受けたのは島全体(2006.7.3)
 
倉田さんの住む御所浦地区では、住民約二百人のうち認定患者五人、九五年の政治決着で交付された医療手帳を持つのは約八十人、最高裁判決後に認定申請したのは約五十人。島で長く暮らしている人で、“被害者”として名乗りを上げていない人は、もはや一人もいないという。「いつの間にか隠す方が少数派になっとった。今ではみんな、島全体が被害を受けたという当たり前んことに気付いとるんだと思う」

(9)獅子島<2> 情報届かぬいら立ち今も(2006.7.4)
 
一九六八(昭和四十三)年、中学を卒業すると同時に島を出た坂口さんだが、水俣病のことは何も知らなかったという。この年、チッソアセトアルデヒドの製造をやめ、政府が水俣病を公害認定。翌年には、患者たちが一次訴訟を起こし、大きな社会問題になっていたにもかかわらず、なぜ伝わらなかったのか。
「魚が浮き、ネコがクルクル回るのは何度も目にしとったんやが」と坂口さん。「島にテレビはほとんどなかったし、新聞も届きよらんやったから」。長島町と合併する前の旧東町が発行した郷土史によれば、離島の獅子島に海底ケーブルで電気が届いたのは、一九六六(昭和四十一)年十二月。それまで各家庭は自家発電やランプでの生活だった。
大阪市で働いているときも、水俣病に関心を持ったことはなかった。しかし八五年ごろ帰省した際、近所の人から気になることを言われた。「お前んとこはよかね。宝くじの当たって」。何のことかさっぱり分からず、返事ができなかった。「宝くじ」の意味が分かったのは、二年ほどしてから。両親が古かった実家を建て替えた。問いただすと、母親が「夫婦そろって水俣病に認定されて、チッソから補償金をもろうたんよ」と打ち明けた。親子の間で、水俣病が話題になったのはこれが初めて。坂口さんが水俣病を自分の問題として自覚したのもこの時が最初だった。
八八年、両親の面倒を見るために獅子島に戻った坂口さん。九五年の政治決着では救済対象にはならなかったため、関西訴訟最高裁判決後、三度目の認定申請をした。
坂口さん宅前の細い道を、小学生の女の子がランドセルを揺らしながら帰宅していた。新聞を小わきに抱えている。「お帰り」と声を掛けた夕涼みの老人に尋ねると、新聞は学校給食の車で島に届き、子どもたちが家に持ち帰るのだという。「中身は朝刊じゃが、届くのは夕刊じゃな」。老人はからからと笑った。
「離島やから情報が十分届かんといういら立ちは、今でもあるよ」と坂口さん。新聞だけではない。今でこそテレビのない家はないが、熊本県の動きは、よほど大きなニュースでない限り県境を越えた鹿児島県では報道されない。「知らんということは、本当に不幸なこと」。悔しそうにつぶやいた。

(10)獅子島<3> 解決策の不公平感が影(2006.7.5)
 
森田さん夫婦は、一九九五(平成七)年の政府解決策に応じた。ところが、国春さんは症状が重い人を対象とする医療手帳が交付されたものの、瑠璃子さんは比較的症状が軽い人向けの保健手帳しか交付されなかった。医療手帳なら、医療費が無料になるほか、二百六十万円の一時金や毎月二万円前後の療養手当がもらえる。これに対し、当時の保健手帳は、医療費などが月額七千五百円補助されるだけ。補償内容の差は大きく、夫婦で明暗が分かれた。
島には、週三日医師が訪れるへき地診療所しか医療機関がない。島の北西側の御所浦の人たちは旧本渡市へ通院するが、「チャーター船を大勢で乗り合わせても、一回の交通費は五千円以上かかる。陸路はタクシーしかなか。急に具合が悪くなったりすると乗り合わせがでけんから、一万円は軽く超える」と国春さん。「医療手帳の手当でも交通費が十分には賄えんのに、保健手帳で足りるわけなか」
森田さん夫婦のような例は、島内に数え切れないほどある。出水の会の男性(65)は、「天草から嫁いできた妻が医療手帳を受けたとに、ずっと島で暮らすわしはもらえんかった」と嘆く。
「医学的なことはよく分からん」と国春さん。しかし、一昨年の関西訴訟最高裁判決後、島で認定申請者が急増した背景には、政治決着のときの不公平感が影を落としていると感じてきた。

(11)獅子島<4> 残された時間は少なか(2006.7.6)
 
国春さんは世話人になった当初、公の場に出たりマスコミの取材を受けるのを避けていたという。しかし、認定申請者が急増する水俣病の現状について語る姿からは、そんな”過去”はうかがえない。
「PTA会長のころ、小学校の統合があったんよ。住民には反対もあってな…」と国春さん。「本当は、水俣病のことでも上には立ちたくなかった。顔も名前も出したくなかったんよ」しかし、島には同じように他人の目を気にして声を挙げられない人が大勢いることを知り、考えが変わったという。誰かが島の声を代弁せんといかん。うちんと(妻)のごつ、政治決着で取り残されたもんの力になりたか」
国春さんには今、心に重くのしかかることがある。「今年になって、御所浦地区だけでも五人の認定申請者が亡くなったんよ。被害者に残された時間は少なか。それを世の中に伝えてほしかとよ」。

(12)初代県公害課長<上> 繁栄の代償…自責の念(2006.7.7)
 
西郷隆盛西南戦争で戦死した将兵をまつる鹿児島市南洲神社に近い住宅地。高台の自宅に訪ねた鹿児島県初代公害課長の内山裕さん(81)は、その「忘れられない出来事」をゆっくりと話し始めた。同県が公害行政をスタートさせた一九七〇(昭和四十五)年夏。出水市米ノ津の漁村で、二人の胎児性水俣病患者に出会った時のことだ。
潮の香りに草いきれが混ざり合う暑い日だった。十三、四歳に見えた男児は、部屋に寝転んだまま言葉にならない声を上げていた。初潮を迎えたばかりの同年代の女児を持つ母親は、その後始末をしながら「おいどんが死んだら、誰かこん子ばみてくるる人のおっでしょうか」と嘆いた。身体は年相応に成長していたが、親の介護なしには生きられない子どもたち。
医師として公衆衛生を学び、県内各地の保健所長を務めてきた内山さんは「これが、私たちが追い求めている繁栄の代償か。『生産がすべて』は善なのか」。自責の念にかられ、ただ「すみません」と頭を下げ続けたという。「その時から、水俣病は生涯背負い続けなければならない十字架だと自分に言い聞かせてきました」。内山さんは、穏やかな表情の奥に鮮明に刻まれた当時の記憶をたどっていく。
そのころ、鹿児島県の認定患者はまだ五人程度。六八年の政府の公害認定を経て、患者が原因企業チッソを相手に初めての訴訟(一次訴訟)を起こしていた熊本県側とは異なり、まだ社会問題との認識はなかった。しかし、実態は違った。とりわけ、出水市は水俣市と隣接しながらも、「魚が売れなくなる、村八分にされると患者は隠されていた」。
「まだ潜在患者はいる」。地元保健師の証言を基に、七一年秋、内山さんは鹿児島大医学部とともに県内の不知火海沿岸六市町住民の健康調査に着手した。対象は約七万八千六百人。同時期に行われた熊本県の調査を超える規模の患者掘り起こし作業だった。
内山さんの手元に、「公害行政」と題した書類ファイルが残る。健康調査に関する手書き印刷のページには、調査手法などが詳細に記してあった。水俣病の疑いが強い人に認定申請を勧める一方、判別が困難な人は「要管理」として健康管理を続け、症状の進行で疑いが強まった時点で申請させるという、その後の「筋書き」も用意していた。七四年春まで続いた調査で七十四人が水俣病認定を受けた。しかし、前年の一次訴訟判決で患者側が勝訴。チッソとの間で補償協定が結ばれたことを機に、認定申請者が急増した。
結果、健康管理の手法は準備段階で破たん。肝心のシナリオは道半ばで崩れさった。「火がついて、一気に燃えさかってしまった」。内山さんは当時の混乱をそう表現した。今も時々広げるのだろうか、ファイルの健康調査の古ぼけたページには、付せん紙が張り付けてあった。

(13)初代県公害課長<下> 国が阻んだ「枠外認定」(2006.7.8)
 
「あれが、まずかったと思っているんですよ」。鹿児島県の水俣病対策に長く携わった同県初代公害課長の内山裕さん(81)=鹿児島市=は、苦しげな表情をのぞかせた。
一九七三(昭和四十八)年、一次訴訟で患者側が勝訴。認定患者にチッソが医療費と一人千八百〜千六百万円の一時金などを支払う補償協定が結ばれた。「あれ」とは補償協定を指す。協定締結は予期せぬ波紋を広げた。六八年の水俣病公害認定を受けて出始めていた認定申請者が激増。鹿児島県などが実施した不知火海沿岸地域の住民健康調査で、水俣病の症状が明確になった時点で認定申請を勧めるとする「要管理」とされていた人も、堰を切ったように救済の門をたたいた。
健康調査自体のほころびも露呈した。調査では三人が「水俣病の疑い」とされていた不知火海の小島・桂島(出水市)。その後、民間医療機関の一斉検診で五十六人が水俣病と診断され、人口百人ほどの島が濃厚汚染を受けていたことも明らかになった。だが、多くの被害者の認定は進まなかった。保留者ばかりが積み増され、熊本では業務の遅れを違法とする司法判断も出された。
内山さんは言葉を継ぐ。「水俣病は一種の食品公害。軽い人から重症者まで、被害の程度に濃淡があるのは当然だった。その差を無視して高額の一時金か、全くゼロか、でしょう。保留者を含め広く救済する制度でない以上、問題となるのは目に見えていた」
現状打開を図った内山さんは七七年、法の枠を超え、医療費支給と何らかの金銭的補償で救済を図るとする鹿児島県独自案をひねり出す。法律上「水俣病ではない」とされる大量の保留者を県が「枠外認定」するものだった。
高額補償と結び付いたが故に、門戸が狭められた認定制度。その「屋台骨を揺るがす挑戦」だった。しかし、国の壁は予想以上に厚かったという。「環境庁(当時)と何度も折衝したが、『鹿児島は良くても、保留者の多い熊本はやっていけない』とはね返された。無理は承知だったが、国は制度バランスにこだわっていた」。内山さんの顔に無力感が漂う。その年、環境庁は認定要件を従来より限定的に定めた新たな判断条件を示す。皮肉にも「患者切り捨て路線」は一層強まった。
ただ、「枠外認定」の考え方は九五年の政府解決策に伴って実施された総合対策医療事業に反映された。水俣病と認められないながらも、一万人以上が医療費や二百六十万円の一時金支給などの救済策を受け入れた。内山さんも「水俣病は終わった」と思い込んでいたという。だが…。
それから十一年。今また四千人に上る新たな申請者が救済を求める。「道半ばだったが、健康管理のシナリオは公衆衛生の王道。鹿児島でも熊本でも地道に続けていたら…」。
帰り際、内山さんが傘寿の記念にまとめた回顧録を一冊くれた。「水俣病との出会い」と題されたページには「心のひだのどこかに、『負』の意識がまとわりついたままでいる」と記してあった。

(14)大学院生 「見る責任」…現地通う(2006.7.9)
 
「今ごろ何をしに来たとか」「もうかかわりたくなか」―。玄関先で追い返されたことも一度や二度ではなかった。
ところが、一昨年の関西訴訟最高裁判決後、現地の空気が一変する。「認定申請者が増え、みんなが水俣病のことを話題にできるようになった。判決前とは大違い」
足しげく現地に通い、判決後の変動を追った。被害者の活動を撮影したビデオテープは三十本を超えた。聞き取りを書き記したノートは何冊になるのか、自分でも分からない。「注目されていないから、私がしっかり見とかなくちゃ。自分勝手な責任感ですけど」
六月の晴れた日曜日。出水市で開かれた水俣病出水の会の集会の壇上に、荒木さんの姿があった。司会を務める傍ら、会場を回ってアンケート用紙の収集などにも奔走。集会を表裏両面から支えていた。
「怒りの段階に到達していない人たち」。荒木さんは、鹿児島県の被害者をそう表現する。「熊本県の被害者は、水俣病の不条理に怒り、チッソや行政と闘ってきた人が多い。でも、鹿児島県の被害者は、体調不良の原因が水俣病かどうかさえ自覚がない人が今もいるんです」